イオン出でて、チボリ亡ぶ

この本のことははてなブックマークで知った。そこに次のようなコメントがあり*1興味をそそられた。

著者は1976年生の社会学者。この本を手にして思い出したのが、id:katamachi氏が2010年に書かれた記事:http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20100830/p1

ブクマコメントで言及されている何でもある田舎のジャスコと、東京を知る人と知らない人との格差 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月は発表当時に楽しく読んだ記憶がある。同じようなテーマを扱って、新書一冊の分量で論じているのなら、一読の価値があるのではないかと思い、早速、買って読んでみた。
以下、その感想……の前に、ちょっと言っておきたいことがある。
若者論の本は多数出版されているが、実はほとんど読んだことがない。なぜかといえば、あまり興味がないからだ。若者に興味がないというわけではなく、そもそも世代論全般に対して疑問を抱いている。世代論などというのは血液型性格判断みたいなもので、ごく少数の例を無造作に一般化して特定の集団に属する人々にべったりとレッテルを貼り付ける作業だと思うからだ。もちろん、慎重な検討と熟考を重ねたうえで行われた、バイアスを極力排した社会調査の結果を根拠にした世代論であれば、一読の価値はあるだろう。しかし、社会調査にはさまざまな制約があり、統計学的見地からの批判に耐えうる理想的な調査はゼロとは言わないまでも非常に少ない。というわけで、「若者に興味がないわけではない」という程度の関心では、なかなか若者論の本に手を出すことはない。
というわけで、『地方にこもる若者たち』への興味は、若者論を期待してというよりも、主として「地方」をどう描いているのかということへのものだった。以下の感想文はそういう視点からのものだということをご了承いただきたい。
さて、『地方にこもる若者たち』は大きく3つの部分から成る。

  • 現代篇 地方にこもる若者たち
  • 歴史篇 Jポップを通してみる若者の変容
  • 未来篇 地元を開く新しい公共

「現代篇」は、主にこの本の著者が他の研究者と共同で実施した岡山県近郊の若者の生活実態の調査結果を紹介している。調査対象者は44人で、統計的に処理して何らかの傾向を見出すには、少し標本数が少ないように思うが、あまり大人数になると人員も経費も時間もかかるから仕方ないのかもしれない。調査対象者の主な属性と質問項目は明示されている。また、調査手法の概略も書かれている。一つ文句を言うとすれば、調査対象者をどういう方法で選んだのかがわからないということだ。たとえば、大学のゼミ生やその伝手で調査に協力してもらえる人を募って調査した場合だと、人脈に由来するバイアスが大きくかかることになるので、「岡山県近郊の若者」の典型的ないし類型的な生活実態を調べたことにはならないだろう。この種の調査で住民基本台帳データを用いた無作為抽出などという手法はなかなか使えるものではないから、ある程度の標本バイアスはやむをえないのだが、読者にそのことを告知しておく必要があったのではないか。
この点が引っかかって、「現代篇」で挙げられた統計数値のほとんどは読み流さざるをえなかった。でも、倉敷駅の北側に同じ時期に開設した倉敷チボリ公園イオンモール倉敷が勝敗を分けた話などは面白く読めた。

チボリ公園の失敗とイオンモールの成功は、倉敷市の近郊に住む人々が、非日常の余暇としてではなく、日常生活の延長線上に、つまり日常の消費生活のなかにこういった大規模施設を望んでいたことの証だろう。チボリ公園の跡地に「イオンモール第2弾」とでも呼ぶべきアリオ倉敷が建設されたことはそのことをよくあらわしている。

と書かれている*2のを読むと、真偽のほどはともかく、説得力があるので「なるほど」と思わされてしまう。ふと、以前読んだ『都市と消費とディズニーの夢 ショッピングモーライゼーションの時代 (oneテーマ21)』を思い出した。あの本にも、もしかしたら似たようなことが書かれていたかもしれない。今度、発掘したら*3読み返してみよう。
「現代篇」は、ところどころ心の中でツッコミを入れながらでも、まあ、それなりに楽しく読んだのだが、「歴史篇」になると急に興味が薄れてしまった。そこでは、1980年代から現代に至るJポップの歌詞を分析して、そこからそれぞれの時代の若者像を語っているのだが、正直、「そりゃないよ」と思った。ポピュラー音楽に全然関心がないので、そこで取り上げられているグループのことはよく知らないのだが、それらのグループの歌がどのような層の人々に受容されたのかを込みにして語るのでなければ、若者論との紐付けはできないのではないか、と思ったのだ。もしかすると、改めて説明するまでもなく世間一般の人には自明なことなのかもしれないが。
で、すっかり意気消沈しつつ「歴史篇」から「未来篇」へと読み進めると、「新しい公共」という言葉が何度か出てくる。「新しい公共」といえば、新自由主義臭漂うNPM*4がマイルドな装いに衣替えしたものだというイメージがあって、なんでこの文脈に「新しい公共」などという言葉が出てくるのか不思議だった。最初は、この本で用いられている「新しい公共」は同音異義語かとも思ったのだが、鳩山元首相の所信表明演説にも言及しているので、別の事態を指しているのではなさそうだ。でも、行財政改革とか「小さな政府」というような話題を抜きにして、単に若者の社会への関わり方について「新しい公共」という言葉を出すのは、かなりバランスが悪いのではないか。
釈然としないまま本文を読み終え、「おわりに」を読むと、こう書かれていた*5

当初は『岡山の若者たち』(!)というタイトルで出版する気でいたのだが、それでは岡山県の人しか買わないだろうと方々から言われ、断念せざるをえなかった。しかし、岡山県の若者たちを見れば日本の地方に生きる若者たちのことが見えてくるに違いないという思いは変わらない。容赦なく進行する郊外のモータライゼーション、国道沿いに並ぶ巨大な路面店やショッピングモール、シャッター通りが増え高齢化の進む旧市街、人口の減少に悩む過疎地域、縮小する製造業と拡大するサービス業、地域社会と切り離された「脱社会化」した若者たち、古き良き「戦後日本」の幻影にしがみつく年長世代、広がる貧困とそのなかでいよいよ閉塞していく近代家族。すべてが「どこかで見た光景」であった。

これですよ、これ。本当に読みたかったのは、ここに羅列されたフレーズに具体的な事例や統計データなどで肉付けしたものだった。たとえば、モータライゼーションを定量的に表すことは可能か? 国道沿いの路面店はいつ頃、どのようにして発展したのか? そして、そのような社会や経済の変化は若者の生活スタイルや消費行動にどのような影響を与えているのか?
「現代篇」を書いたところで著者が息切れしたのか、それとも一つの話題を膨らませるだけでは読者を飽きさせるので好ましくないという版元サイドの判断があったのかはわからない。ともあれ、『岡山の若者たち』が世に出ることがなかったのは残念で仕方がない。

*1:というか今、この文章を書いている段階では、まだブクマ件数は1件だ。

*2:29ページから30ページにかけて。

*3:今は本の山に埋もれていて参照できない。

*4:「New Public Management」の略。「新公共経営」などと訳される。

*5:208ページ。