若者達が本当に文化的貧困を望んでいるとは思えない

次の世代が文化的に貧しくて可哀想、なんてのは先行世代の思い上がりだ。たとえ彼らが本当に貧しいのだとしても、それで満足しているのならなんの問題もないじゃないか。

「思う」「信じる」「疑う」「望む」などの語を含む推論は形式論理学では処理しにくい。
たとえば、

  1. 若者達は値段と品質がFreeなカルチャーを望んでいる。
  2. 値段と品質がFreeなカルチャーは文化的貧困に至る。
  3. 若者達は文化的貧困に至ることを望んでいる。

1と2が真であっても、そこから3を導出するのは妥当な推論ではない。なぜなら、若者達は無知であり、2を知らないかもしれないから。
では、次はどうか。

  1. 若者達は値段と品質がFreeなカルチャーを望んでいる。
  2. 若者達は値段と品質がFreeなカルチャーは文化的貧困に至ることを知っている。
  3. 若者達は文化的貧困に至ることを望んでいる。

1と2が真であっても、そこから3を導出するのはやはり妥当な推論ではない。なぜなら、若者達は考えを巡らせる力に乏しいかもしれないから。
実際のところは、こんな感じじゃないかと思う。

  1. 若者達は自分に値段と品質がFreeなカルチャーが与えられることを望んでいる。
  2. 若者達は値段と品質がFreeなカルチャーは文化的貧困に至ることに気が回らない。
  3. 若者達は文化的貧困に至ることを望んではいない(が、それを阻止することに関心がない)。

「若者達は」と書いたが、実はこれは若者に限ったことではなくて、先行世代にもあてはまるのではないか。ただ、先行世代の時代にはコピー技術がまだ十分ではなく、値段と品質がFreeなカルチャーを享受することがあまりできなかったというだけのこと。
ちなみに、先行世代と若者が全く別の世界に生きているのでない限り、若者の消費行動に起因する文化的貧困は先行世代にものしかかってくるのだから、「なんの問題もない」とは言えない。もちろん、そんなことはわかった上で反語的にそう書いているのだろうとは思うが。