ノラは家出する前どうであったか

人形の家(新潮文庫)

人形の家(新潮文庫)

先日、『ちくま文学の森5巻 思いがけない話』に収録されているO・ヘンリーの「改心」(大津栄一郎)を読んだ。この作品の原題は「A Retrieved Reformation」は通常、「よみがえった改心」と訳される。Wikipediaでもそうなっているのだが、日本語としてなんだか意味がよくわからないタイトルだ。原題を直訳するとそれでいいのだろうが、「改心」のほうがすっきりしている気もする。
ちなみに青空文庫では「罪と覚悟」と原題とは異なるタイトルをつけている。それはいいのだが、冒頭でいきなり不思議な光景に出くわすことになる。

一人の監獄が、刑務所内にある靴工場へやってくる。そのとき、ジミィ・ヴァレンタインは靴の革をせっせと縫っていたのだが、監獄に連れられて、表の事務所へ行くことになった。事務所に入ると、刑務所長がジミィに恩赦状を手渡した。今朝、知事の手でサインされたものだった。ジミィはやっとか、というふうに受け取った。四年の刑期のうち、もう十ヶ月くらいになる。三ヶ月くらいですむものと思っていたのだ。だいたいジミィ・ヴァレンタインのように、外にお友だちがたくさんいる人間は、刑務所にぶちこまれたからといって、いちいち頭を刈ってたんじゃ、きりがないくらいだ。

「監獄」といえば刑務所のことではないのか*1? なぜ、監獄が刑務所内へやってくるのだろう? もしかすると「監獄」には、刑務所に勤務する職員を表す用法もあるのかもしれないが、寡聞にしてそのような用例を知らない。「看守」ならふつうなのに、なぜ「監獄」という語を採用したのか不思議だ。
それはともかく、「よみがえった改心」の主人公、ジミー・バレンタイン*2はラストシーンのあとどうなっのだろうか? 子供の頃に、新潮文庫の『O・ヘンリ短編集 (1)』で初めて読んだときには、名探偵ベン・プライスに見逃してもらったジミーは婚約者のもとへ戻ったのだろうと素直に思ったのだが、大人になって読み返してみると、銀行関係者の面前で名人芸を披露してしまった以上もはや戻ることはできないということに気がついた。ベン・プライスが見逃しても世間は見逃してくれない。ジミーは逐電するしかないのだ。
と、こんなことを考えている最中にふと「ジミーは逐電してからどうなったか」というフレーズが思い浮かんだ。ジミーは金庫破りに戻るしかなかっただろう、というのは言い過ぎかもしれないが、魯迅の文体を模してパロディを書いてみたら面白いのではないかと思った。そのためには「ノラは家出してからどうなったか」を再読しなければならない。これは大昔に国語の教科書か何かに載っているのを読んだことがあるだけで、細部は全く覚えていない。
「ノラは家出してからどうなったか」はちくま文庫の『魯迅文集〈3〉』に収録されているらしい。著作権は切れているはずなので青空文庫に入っていないかと思ったが、作家別作品リスト:魯迅には見あたらない。仕方がないので図書館で探してみるつもりだ。
ところで、「ノラは家出してからどうなったか」をちゃんと読むためには、当然、『人形の家』も読んでおかなければならないだろう。これは確か新潮文庫で簡単に手に入ったはず。そう思っていくつかの書店を巡って、当初の予想ほど簡単ではなかったがなんとか入手できた。
そういった次第で、生まれて初めて『人形の家』を読んでみたのだが、これがまあ滅法おもしろい。や、「滅法」なんて古びた言葉使っちゃったよ。「無類におもしろい」のほうがよかったかも。
『人形の家』といえば「近代的自我に目覚めた女性が夫の庇護を振り捨てて自立を目指す戯曲」というくらいの予備知識しかなかったし、実際に通読してみると確かにそういうテーマの話であるのは確かなのだが、テーマが全面に出てくるのは第三幕の中盤で、それまでの展開には犯罪心理サスペンスといった趣がある。あまり似ていないが、『レディに捧げる殺人物語』とか『わらの女』などを連想しながら読んだ。あ、どちらも創元推理文庫だ。してみると、最近文庫化した『人形の部屋』にも通じる点があるかもしれない。これは未読なので今度見かけたら買うことにしよう。
閑話休題
『人形の家』は、お嬢様育ちで世間知らずの主人公ノラが過去に悪気なしに行ったことが実は重大な犯罪行為だと気づかされ、徐々に窮地に陥っていくさまを描いている。尊大さと卑小さ丸出しの夫ヘルメルが、自らは妻の行為を知らないまま激しい言葉で犯罪を糾弾することで、彼女を追い詰めていく場面が素晴らしい。腹の底からわき上がるどろどとした暗い笑いを堪えることができない。イプセンとはなんと底意地の悪い作家なのだろう、と感心する。ノラが最後に家出するということは知っていても、そこに着地するまでの展開が全く読めず、ページを繰るのがもどかしいような気持ちになる。
ノラの犯罪を暴露するクログスタットからの手紙が時限爆弾のように彼女を焦らせ、タランテッラ*3を踊らせる。作中では特に説明はないが、タランテッラが毒蜘蛛タランチュラの解毒のための踊りだという説を知っていると、作者の悪意に歪んだユーモアがよりひしひしと伝わってくる。
そして爆弾が破裂し、ヘルメルもまた爆発する。その暴言の直後に届けられるクログスタットからの第二の手紙。このあたりのストーリーの運びは神業としか思えない。イプセンが活躍した時代は19世紀後半で、まだミステリという文芸ジャンルが大きく花開く前のことだが、彼がもしミステリを知っていたなら嬉々としてこの新ジャンルに取り組み、傑作を物したのではないだろうか。
著しく偏った読書嗜好のせいで、誰もが知っている古今東西の名作文学というものをほとんど読んでいないのだが、やはり時代を超えて生き残り受け継がれる文学にはそれなりの理由があるのだ、と納得した。
『人形の家』の巻末に置かれた訳者の解説に次のような記述がある。

もちろん婦人解放論のごときは今日からみればもはや陳腐の問題であり、事実その問題文学の多くはすでに色褪せてしまっているが、ひとり『人形の家』のみは、そこにみられる隙間のないほどの演劇技巧と清新かつ精錬された写実的な対話とによって今なお光を失ってはいないのである。

現代において婦人解放論が陳腐化しているかどうかは異論のあるところだと思われるが、この文章が書かれたのが旧弊が打破され、敗戦後の混乱も大方静まった民主日本の勃興期である1953年に書かれたことを思えば、戦後民主主義が見事なまでに凋落した現在の視点で批判するのは失当だろう。それよりも、『人形の部屋』がそのテーマによってではなく「隙間のないほどの演劇技巧と清新かつ精錬された写実的な対話とによって今なお光を失ってはいない」という評価に着目する必要がある。個人的には、あまり「写実的な対話」だとは思わず、ただただ技巧の素晴らしさに感服したのだが、ともあれ『人形の家』が今なお読まれるべき傑作であるという点に異存はない。「5分でわかる世界の名作」の類のダイジェストでは決して味わうことのできない興奮とスリルがここにはある。未読の方はぜひお読みください。
あ、最後に一言。冒頭に長々と書いた「なぜ『人形の家』を読むことになったか」という事情の中で言及した、魯迅の文体のパロディ云々はすっかり書く気が失せたのでやめることにします。ノラは銀行の頭取就任予定者の妻で、ジミーは銀行家の娘の婚約者という、ある意味似たポジションではあるものの、『人形の家』と「よみがえった改心」を比較するのはさすがに強引だと思うので……。

*1:刑事施設 - Wikipediaによれば、「監獄」には現在の刑務所以外の施設も含まれていたようだが、細かい話はやめておこう。

*2:「ジミィ」だったり「ヴァレンタイン」だったり、人名の表記は訳によって揺らぎがある。

*3:これは「タランテラ」と表記するほうが現代では一般的だと思われるが、ここでは『人形の家』における表記による。