言語に「乱れ」は存在するし、それが非難されるのには意味がある

国語学研究員は、「日本語の乱れ」の夢を見るか: 不倒城を読んで、少し疑問を抱いたので、以下思うことを書いてみる。予め構成をきっちりと考えて書いているわけではないので、あまり理路整然とした文章にはならないだろう。なので、とりあえず現段階での結論を見出しで示しておいた。

国語学って何?

国語学研究員は、「日本語の乱れ」の夢を見るか: 不倒城の筆者は学生時代に国語学を研究していたそうだ。そっち方面に通じているわけではないので、国語学研究者の間では「正しい日本語」が「こりゃあかん」と思われているのだというのなら、それはそうなんだろうと受け入れるしかない。
ただ、国語学というものが文献資料にあらわれたさまざまな言葉の用例を研究する純然たる実証科学だとすれば、そこには規範的な意味での「正しい日本語」という観点ははなから欠落しているのだから、そもそも国語学研究者が何を言おうが「正しい日本語」についての権威はないということになるのではないだろうか?
たとえば、心理学者は人間の心理に関わるさまざまな現象を研究する。その中には知覚や感情と並んで、推論や計算などといったものも含まれるだろう。しかし、心理学者は人間の推論・計算にかかる心理的カニズムについて語ることはあっても、「推論の正しさ」や「計算の誤り」の判定を行うわけでもなければ、その判定の根拠となる法則を示すわけでもない。それは、論理学者や数学者の仕事だ。
モンティ・ホール問題について心理学者が「モンティが1つのドアを開けたあとでも確率は変わらないと考えるのが人間の自然な心理であり、稀に確率が変わると考える人もいる。事実はこれだけであり、そこに『確率についての正しい判断』や『確率についての誤った判断』などというものは見いだされない」と主張したとしても、だからといって「確率についての正しい判断」が「こりゃあかん」となるわけではない。

論理・数学・言語

とはいえ、推論や計算の場合の「正しさ」と言語における「正しさ」の間には、明らかに大きな違いがある。通常、論理や数学は人間の活動から独立であり、必然的であり、かつ、時空を超えて普遍的である、と考えられている。これに異を唱える人もないわけではないが、今は社会通念に従って話を進めることにしよう。
「ド・モルガンの法則」にしても「三平方の定理」にしても、歴史的に変容するわけでもなければ、多数決によって正しさの根拠が得られたり失われたりするわけではない。一方で、言語にはそのような「法則」や「定理」はない。「○○の法則」と呼ばれるものがあっても、それは経験的に得られたものであり、恒常的な妥当性など望むべくもない。

乱れというのは、要するに変化です。言語が「活きている」、つまりたくさんの人に使われている限り、言語が「変化しない」ということは有りえません。だから、日本語にこれが「正しい日本語」というものはないんです。あるのは、「今、この地域で多数派の日本語」というものだけ。

だから、国語学を研究する人で、「乱れた日本語」なるものに眉をひそめる人、ってあんまりいないと思いますよ。若年世代の新語とかインターネットスラングとか、言語の変化の生きた見本です。むしろ是非研究したい。

これは、言語における「正しさ」を論理学や数学の「正しさ」をモデルとして考えるなら、当然導かれる結論である。問題は、この見解が、「正しい日本語」を喧伝している人々の言語活動に対して、本当に有効な反論であるのかということだろう。

言語における「正しさ」とは

実を言えば、「正しい日本語」を云々する類いの本はあまり読んだことがない*1ので、実際に「正しい日本語」論者がどのようなことを書いているのかは知らないのだが、まさか論理学・数学モデルを採用しているわけはないだろうと思う。もしそんなことをすればカンブリア爆発の頃にも「正しい日本語」があったことになるし、アンドロメダ星雲のかなたにも「日本語の乱れ」があることになってしまい、あまりにも不自然だ。
では、論理学・数学モデルを採用しないとすれば、「正しい日本語」というのは無意味になってしまうのだろうか?
そうではない。たとえば、次の文章を読んでほしい。なお、原文にある強調はすべて無視し、引用にあたって別の観点から強調を行ったことを予めお断りしておく。

断っておきたいんですが、「どんな言葉も日本語として間違いではないんだから、がんがん間違えましょう」と言ってる訳じゃないですよ。場面場面によって「無難な日本語」「妥当な日本語」というのはありますし、その時点で一般的な使い方でない言葉は当初「誤用」として扱われます。例えばビジネス文書に使うべきでない言葉、というのは今でも厳然として存在しますし、永遠と、という言葉は多くの場合明確に「延々と」の誤用です。

今の時点での誤用を避けた方がいい場面、というのは確かにあります。

「べきでない」「いい」というのは、規範性を含む語である。「ビジネス文書に使うべきではない言葉」は「現にビジネス文書では使われていない言葉」と同じではないし、「今の時点での誤用を避けた方がいい場面」は「今の時点での誤用が避けられている場面」とは同じではない。
この引用文では「正しい」というストレートな語は用いられていないが、言語現象の忠実な記述というレベルから、「よい・悪い」の判断のレベルへと一歩踏み込んでいる。これはいかにして可能となるのか?
少なくとも、論理学・数学モデルに従い、何らかの「公理」から導出されたものではないだろう。引用文の筆者は明示していないが、たぶん、言語使用を取り巻く環境にあるさまざまな規範から自ずと言語にも規範性が帯びてくるということではないかと思われる。違ったらごめん。
ともあれ、普遍的・必然的な「正しさ」が言語にはないとしても、「正しさ」という観点が完全に消失するわけではないということは動かしがたいと思われる。具体的な語の用法にとって、何が正しくて何が誤りなのかは、言語の変化に伴って変化しうるし、過渡期には正しいとも誤りとも言いがたい境界事例も生じるだろうが、それは言語において「正しさ」はないということにはならない。
ならば、「正しい日本語」論者を非難するのは、「正しい日本語」というナンセンスな概念にしがみついているからではなくて、個別具体的な事例において「正しい/間違い」の判定が間違っていることや、昔は通用したが今はもう時代遅れになってしまった言語観に基づいてその判定を行っていることではないか。
「『間髪』を『かんぱつ』と読むのが間違いだ」という主張に対して「昔はそうだったかもしれないが、今は『かんぱつ』で一語として用いられているのだから、もはや間違いではない」と反論するのであればまともだが、「そもそも『正しい日本語』を希求することに意味がない」と言ってしまうのは雑すぎるだろう。この論法だと、「『間、髪』なら『かんはつ』でなければならないのに『間髪』と一語になれば『かんぱつ』で差し支えないのはなぜか?」という興味深い問いをも門前払いにしてしまうことになる。

「正しさ」を追求する意味

言語の変化は概して「楽な方に楽な方に」流れていく。それを一般に禁じる必要はない。だが、「楽な方に楽な方に」という流れをありのままの事実として単に受け入れ規範的観点を放棄したり、あるいは「言語の変化はよいことである」と是認するとどうなるか。それは言語経済に必ずしもかなったことではないだろうと思われる。
たとえば、急激な言語の変化は過去の文献を読むときのハードルをあげる。また、世代間の意思疎通の困難をひきおこすこともあるだろう。また、言語の変化が無秩序になされた場合には、新たな言語表現を学習する際の知的コストの増大を招くことにもなる。
そう考えると、「言葉の乱れ」に敏感な人が常に非難している状況というのは、むしろ言語経済に寄与しているのではないか。
「言葉の乱れ」の誹りを受けてイレギュラーな言語表現使用が下火になれば、それはそれでよし。度重なる抗議と非難を乗り越えて、次の時代の標準とするのであれば、それなりの強度と合理性を備えていたからということだろうだから、それもまたよし。後世から振り返ってみれば、言語は一直線に「楽な方に楽な方に」流れているように見えるかもしれないが、その陰には時代ごとの言語規範意識に耐えられずに消滅した流行語が多数あったに違いない。

言葉は生き物……ではないが

「言葉は生き物」ではないのは言うまでもない。生き物だとすれば、それは動物なのか、植物なのか。それとも菌類なのか。いかなる生物学者も言語を適切に生物の統一的な階級分類に位置づけることはできないだろう。
だが、「言葉は生き物」という比喩は全く役に立たないわけではない。それは、少なくとも目に見える大きさの生物の進化はゆるやかであり、急激な突然変異は多くの場合、生物の存続にとってマイナスであるという知見を想起させてくれるからだ。
言葉の変化はときには健全な生理であるが、別の場合には病理でもある。どちらであるのかは歴史の裁きを経ないと判断が難しい。その難しいことにあえて挑戦する「正しい日本語」論者たちはドン・キホーテであるかもしれない。彼らの活動を全否定するのではなく、是々非々で対応すべきではないかと考えるのだが、如何?

*1:高島俊男氏の『お言葉ですが……』シリーズは一時期よく読んでいたが、これは一方では「正しい日本語」についての主張を多く含むとともに、他方では俗流日本語論をばっさばっさと切り捨てるというもので、「正しい日本語」本の主流ではなさそうな気がする。