一本足の蛸の比喩

絶望系 閉じられた世界 (電撃文庫 1078)

絶望系 閉じられた世界 (電撃文庫 1078)

『絶望系 閉じられた世界』における一本足の蛸の比喩は、人間を逆立ちした蛸の足に喩えるところから始まる。水面から八本の足が出ていて、それぞれ好き勝手に動いているのを見る者は――もし彼もしくは彼女がそれまでに蛸を見たことがなければ――八体の生物がいるものと錯覚するだろう。人間もこの蛸の足と同じで、自分は独立した個体だと錯覚しているが、実はすべて目に見えないところで繋がっているのだというのである。他方、彼女*1は他の人間と全く繋がりを持たない。従って、彼女は一本足の蛸に擬えられることになる。
この比喩はさまざまな意味で示唆的である。たとえば、現代思想に通じた人なら、ユングをはじめとして何人かの思想家の名を挙げて論評することができるだろう。それは興味深い試みであるに違いない。だが、今はこの比喩そのものの構造について検討を加えることにしよう。

「一、二、たくさん、たくさん」

現在、地球上には六十億を超える人間がいる。人類を蛸の足に喩えるということは、数十億をたかだか一桁の数である八に置き換えてしまうということである。そこでは、八は「多数」の象徴である。
比喩は一般に厳密な対応関係を持たない。理解の助けになる程度に類似していればいいのであって、細部まで一致している必要はない。従って、十桁の数と八とが等号で結ばれても何ら差し支えはない。ただ、一に対する多が表現されていればいいのだから。
しかし、人類を蛸に擬えることによって、万物の霊長とか人格の尊厳などといった理念を矮小化ししていることに着目するならば、両手で数えられる程度の数で人類の総人口を表すことには、単なる比喩一般の特徴以上の意味が見いだされる。無数に蠢く群衆も、たかだか八本の蛸の足も、突き詰めれば「たくさん」に過ぎず同じことだ。
大惨事が発生し逐一死傷者の数が報道されるとき、最初のうちは死者の多さに愕然とした人も、発表された死者の数が増していくについて次第に驚愕が薄れ、ついには無感動の境地に至る。数の大小を判断する能力がなくなったわけではなく、ひとりひとりの死者に思いをはせることができなくなるのだ。その時、死者は蛸の足に変じる。たいへんなことがおこりました。ひとがたくさんなくなりました。なんてむごくてかわいそうなことでしょう。

版画画廊

最初、蛸に喩えられたのは人類のみだった。しかし、人として生まれながら人類や他の生命体の何とも共有する部分を持たないのです。という一言で、この比喩の射程は人類から生命体一般に拡張される。この言葉じたいは彼女と他の生命体との関係に言及しているだけで他の生命体相互の関係については何も語ってはいないが、最も強い解釈をとれば、すべての生命体が目に見えないところで繋がっているということになるだろう。また、やや弱い解釈では、人類がそうであるのと同様にそれぞれの種の個体どうしに繋がりがあるということになる。いずれにせよ、拡張された比喩の射程内には、ある特別な種が含まれている。それはである。
蛸という種全体を一体の蛸に喩える。あるいは強い解釈に従い、蛸という種を含む生命体の総体を一体の蛸に喩える。そのこと自体はさほど奇妙なことではない。地球誕生から現在に至るまでの歴史を一日ないし一年に凝縮した喩えを見聞きした経験がある人もいるだろう。だが、この比喩は、一本足の蛸と対比されていることを忘れてはならない。一本足の蛸に擬えられた彼女は蛸ではなく人間である。従って、この比喩は同心円ではなく、歪んで捻れた入れ子構造になっている。
ちょうどエッシャーの「版画画廊」を見たときのような幻惑が、ここにはある。

一本足の蛸の足

地球上に生まれた人間のひとりひとりを、またはその他の生命体の個体を、それぞれ蛸の足の一本一本に喩えるならば、それと対比される彼女は、本来なら一本足の蛸の足または蛸の本体と繋がりのない一本の足に擬えられるべきだろう。足は足に対応するのだから。にもかかわらず、彼女は足にではなく蛸に喩えられている。これはただのカテゴリーミステイクだろうか。それとも何らかの意味があるのだろうか。
作者の意図なるものを安直に想定し忖度する愚を避けて、あくまでも比喩の構造に即して検討しよう。
水面から足だけ出した蛸、その本体は水面上からは見えないものである。だが、得体の知れないものではない。足と足を繋ぎ、統括するという機能が蛸の本体に割り当てられている。それ自体は観測できなくとも、それぞれの足の振る舞いをもとに、本体がどのようなものであるかについて仮説を立てることは可能である。
他方、彼女は得体のしれないものである。複数の足の動きをとりまとめるという合理的な機能がないため、仮説も推測も不可能である。隠されたもの、不気味な何か、不条理で近寄ることができず、ただ畏れるべきもの。一本足の蛸には、人類を八本足の蛸に喩えて隠された本体を措定することによって、かえって合理的な割り切りが可能となり矮小化されたのとは逆の効果がある。それは単なる見かけ上の異形ではない。いわば、形而上学的化け物なのである。

*1:『絶望系 閉じられた世界』の主要登場人物のひとり。以下この項において同じ。