キミとボクとセカイ系

『電撃!!イージス5』が無事2巻で完結し、谷川流はしばし沈黙した。
そして、一ヶ月の雌伏の後、谷川流は不死鳥の如く雄飛を果たした!*1
新シリーズは、まさかのバトルものだ。なぜ「まさか」かと言えば、『電撃!!イージス5』で、谷川流血湧き肉躍る戦闘シーンを書くのが心底厭なのだということが衆目に晒されたからだ。あとがきでは、何でも好きなものを書いてもいいと編集者に言われたというようなことを書いているが、それは嘘に違いない。本当に書きたいのは『絶望系』みたいな小説なのだ。きっと、精神的ミザリー状態でウケ狙いの小説を書かされているのだろう。
さて、先ほど「谷川流血湧き肉躍る戦闘シーンを書くのが心底厭なのだ」と書いたことに異論があるかもしれない。「好きとか厭とかじゃなくて、ただ単に書けないだけじゃないの?」だが、それは間違っている。血湧き肉躍る戦闘シーンなんて簡単だ。*2既成の作品から適当にパクってしまえばいいのだから。なに、「パクリはよくない」って? そりゃまあ、確かにいいことではないが、みんなやってるじゃないか。バレなきゃいいんですよ、バレなきゃ。
けれど谷川流はそうしなかった。そのかわりにこう書いたのだ。
(以下内容に触れます。)

言語を絶する戦いだった。言語を絶するというのは比喩ではない。文章描写が不可能なだけではなく、絵にも描けないことも確実だった。色々マズいことになりそうだから。
(略)
少年はそれはもう、いやになるほど使い勝手のよさそうな、他人り考えたガジェットを丸々コピーしてくれた。具体例を挙げるのもはばかられる。魔術的なというか、超能力的なというか、なんだろう、スーパーナチュラルな能力で、特に固有の名称がついていそうなアレとかコレとかである。それも一つではなく、様々な作品からコピーし、綾羽と戦っている。
それもかなりメジャーなガジェットをそのまんま使っていた。少しでもひねってくれたらまだよかったのだが、ワザの名前から使い方までまったく同じなので、それがどういうものであるのか描写することすら困難だった。こう、版権的に。*3
凄い! これは凄すぎる。未だかつて、このような活劇シーンを書いた小説家はいただろうか? 天晴れな開き直りだ。
でも、これはさすがに一生に一度しか使えないネタだから、この先どうするのだろう……と思っていたら、第6章では予想外の直球勝負に出た。今度はちゃんと普通にパクっている――ただし、パクリ元がエドガー・アラン・ポーだという点を除けば――。このあたりのギャグとシリアスのメリハリの付け方はさすがに見事なもので、大いに感心した。
ただ、手放しで褒めることはもちろんできない。既にあちこちで指摘されていることだが、作者の手がちょこちょこと物語に介入して、読者の没入を妨げるという趣向はいかがなものか。
たとえば、

ところで、ここまでと言えばこれもここまで二人の少女の名前を不明のまま過ごしていたが、そろそろどっちがどっちやらややこしくなってきた。髪の長いほうとかチビっこいほうとか、なんていう描写のまま続けるのは面倒極まりない。どうせ巽にもすぐに知れることなので、ここで二人の名称を紹介する。*4
とか、

つかみかかろうとした石丸の手が届くより先に綾羽が神速の動きを見せた。とはいえ、さすが神速の動きだけあって誰にも見えることはなく、やむを得ないので三人称神視点の特権を利用して説明する。*5
とか。
このような書き方は昔の大衆小説にはよく見られたものだ。「作者」と書いて「わたくし」とルビを振ったり、「読者」と書いて「みなさん」と読ませたり。また、今でも時代小説の分野では作者が地の文で作者自身の視点から説明を行うのはごく当たり前のことで。でも、現代のライトノベル読者の大多数は昭和の大衆文学に通じているわけでもないし、時代小説のファンも少ないだろう。
では、なぜこのような書き方をしているのか? 一つの理由として、後半のシリアスな展開を引き立たせるという効果が考えられる。最初のうちはしきりに茶々を入れていた地の文が次第におとなしくなり、第5章以降は上で引用したような書き方はすっかり影をひそめてしまう。そのかわりに、主人公の巽以外の人物の視点が挿入頻度が増し、ふつうの三人称複数小説に近くなる。一つの小説の中で叙述スタイルを次第に変えていくという技巧が用いられているわけだ。
もう一つの理由は、谷川流の生真面目さに求めることができるだろう。よく知られていることだが、谷川流の作品には視点の混乱がほとんどない。一つの場面では必ず視点が一人の人物に固定され、その人物が知らない情報や他人の心理などは排除されている。一般文芸では当然のことだが、マンガの影響を強く受けているライトノベルの世界ではむしろ少数派なのではないだろうか。*6
視点の混乱を避けようとすると、主人公がまだ知らないヒロインの名前を書いたり、主人公には見えない彼女の動きを描写したりするには、主人公の背後に立つ作者本人が出て行かざるをえない。谷川流は、作者の手を介入させながらさもそれが自然なことであるかのように頬っかむりするのに耐えられないのだ。これは、世に満ち溢れる野放図なパクリ*7に対するアンビバレントな態度に見られる潔癖さとも通じる。
このまま進んでいくと谷川流はいったいどこに行ってしまうのだろう? 自縄自縛に陥って失踪するしかないのだろうか? それとも何か突破口を見出して、『絶望系』の出版と引き替えに電撃に売った魂*8を無事買い戻し、『学校を出よう!』の続篇を書くことができるのだろうか?
谷川流は今もっともスリリングな作家といえるだろう。

おまけ:本文に盛り込めなかった雑感

  • この小説のタイトルの「ボク」とは誰のことだろう? 少なくとも巽の自称でないことは確かだが。
  • 設定は全然違うが、ブラウン*9の「さあ、気ちがいになりなさい」と「闘技場」を連想した。
  • この小説には作者は頻繁に出てくるが、読者への語りかけはない……と思っていたら、最後から二番目の文がそうだった。
  • ぎをらむ氏が指摘している世界名の元ネタ以外に何か裏設定はないだろうか? 主人公の名前「巽」が南東の方角のことだとすれば……と考えたが後が続かない。「津門綾羽紬」は「綾辻行人」のアナグラム、というわけでもないし。ウォーターバード::Reading LightNovels - 「ボクのセカイをまもるヒト」名前の元ネタを参照。いかにも谷川流らしいネーミングだ)
  • 「プロローグ」の冒頭2行は、複数の主人公候補の生き残り競争を暗示しているのだろうか? 「エピローグ」最後の1行と合わせて考えると意味深長だ。別の人物を主人公にした番外篇が書ける設定なのかもしれない。
  • それにしても、谷川流ってツンデレを書かせると無茶苦茶うまいなぁ。

*1:「雌伏」とか「雄飛」とか女性差別も甚だしいが、「雄伏」や「雌飛」という言葉はないので仕方がない。

*2:「簡単だというならお前が書いてみろ」というのは勘弁してほしい。谷川流ほどの小説家にとっては簡単だという意味なので。

*3:第4章:pp.143-144

*4:第1章:pp.41-42

*5:第3章:p.111

*6:視点の話をしはじめるときりがないので、ここではこれ以上述べないが、関心のある人はすがやみつるの雑記帳: 「マンガの視点」と「小説の視点」を参照されたい。

*7:具体例は挙がっていないが、たぶん特定の仮想敵がいるはずだ。西尾維新だろうか?

*8:当然のことながらこれは冗談なので本気にしないように。

*9:カーター・ブラウンではない。