子供の頃、テレビの某クイズ番組にレギュラー出演していた中島梓と、書店の文庫コーナーにずらりと並んでいた*1某大河シリーズの著者栗本薫の顔がそっくりであることに気づいた。
中島梓栗本薫はなぜそっくりな顔なのだろう?」
この疑問は間もなく解消した。中島梓栗本薫は同じ人だったのだ。
ここで、もうちょっと粘って「中島梓栗本薫はなぜ同じ人なのだろう? なぜ中島みゆき中島河太郎ではなく、この中島梓とあの栗本薫が同じ人なのか?」と問うていれば、今ごろ月給取りではなく哲学者*2になっていたかもしれない。あるいは、「中島梓栗本薫が同じ人であるということは、中島梓の顔と栗本薫の顔がそっくりであることの理由として十分だろうか?」とか。
だが、幸か不幸か、そのような疑問は子供心にこれっぽっちも浮かぶことはなく、そのうち件のクイズ番組は放送終了し、未だに某大河シリーズは読んだことがない。
さて、ここからが本題。
高橋直樹氏とは逆に、世界があらかじめ(文字通り)「色分け」されていて、「赤さの本質」が存在する、と仮定してみることにしよう。その場合、「赤さの本質」とは何かと考えてみると、真っ先に思い浮かぶのは光の波長だ。もとの質問で言われていることが正しいなら、光の波長が700nmであるということが「赤さの本質」だと考えられる。
そうすると、「波長700nmの光がなぜ赤に対応するのか?」という問いへの答えは簡単だ。「波長700nmの光と赤は同じことだから」と答えればよい。そこでさらに「では、波長700nmの光と赤はなぜ同じなのか?」と重ねて問うならば、それはもはや本来の素朴な疑問ではなく、同一性関係についての形而上学的問いとなる。それは「中島梓栗本薫はなぜ同じ人なのか?」と同じく、「なぜ?」という問いかけそのものが成立するのかどうかが危ぶまれるような問い*3だ。赤とか栗本薫とかは例示に過ぎず、実のところ色彩や人物についての問いではない。
……という説明を思いついたのだが、どうだろう?
もちろん、最初の仮定に無理があるため、そのまま受け入れることはできないだろう。中島梓栗本薫が同じ人であるということは認められても、波長700nmの光と赤さの印象が同じことだとは容易には認められない。少なくとも3つの反論が考えられる。

  1. 波長が701nmの光や699nmの光であっても、おそらく人間の目では区別がつかないだろう。従って、これらの光に対応する色は同じだといえる。もしある波長の光とある色が同じだとすれば、等しいものに等しいものが等しくないということになり、これは不合理だ。
  2. 波長700nmの光が常に赤に見えるとは限らず、逆に波長700nmとはかけ離れた光が赤に見えることもある。後者の例としては、強烈な緑色の光を見た直後に白いものが赤に見えるという現象がよく知られている。
  3. そもそも光の波長という物理的な特性と、人間の視野に広がる色の印象とは全然カテゴリーが異なるのだから、それらが同じであるはずがない。

これらの反論のうち、1はあまりたいしたものではない。波長が701nmの光と699nmの光の区別がつかないのは、人間の識別能力の限界を示しているだけのことで、別に両者が同じ色に見えているということを意味するものではない。また、両者を同じ「赤」という語で表すのは、日常言語の表現力の限界を示しているだけのことで、このことからも両者が同じ色に見えているという結論は得られない。*4
2はちょっと厄介だが、議論のおおもとに立ち返れば何とか処理できそうだ。というのは、上で提案した説明に対して2を反論として提示するには、もとの問いを修正しなければならないからだ。もとの問い「波長700nmの光がなぜ赤に対応するのか?」は「波長700nmの光が赤に対応する」ということを前提として成立するものだから、それが成立しない場合もあることを認めるならば、もとの問いは崩れ去ってしまう。そこで例外事例を込みにして「波長700nmの光はなぜ多くの場合に赤に対応するのか?」と問いを修正するなら、それに応じて上の説明も「波長700nmの光と多くの場合に赤は同じことだから」と修正することになる。そうすると、1と2は説明に対する反論というよりも補足説明の要求という意味合いを帯びることになる。
2で示された例外事例についての補足説明は心理学者に任せておいて、3について検討しよう。これは難物だ。誰だって、物と心は別だと思っている。心は究極的には物に還元されると考える唯物論者だって、還元の手続きなしに心のある状態が物のある状態と同じだとは考えにくいだろう。
でも、ここまで来たのだから、色の本質は光の波長だという当初の思いつきをごりごりと推し進めてしまうことにしよう。光の波長は光学機器で測定可能なことだから、物の世界に属する事柄に違いない。だったら、視野に広がる色の印象もまた物の世界に属する事柄だと考えてしまってはどうか。我々が色を見ているとき、心の中に浮かぶ何かを見ているのではなく、端的に物のもつ性質を見ているのだ、と考えるわけだ。
「じゃあ、誰も見ていない光はどうよ?」というツッコミに対しては「もちろん、誰も見ていなくても、誰かが見ているのと同じ色がそこにはある。ただし、その色の印象を報告する者がいないだけのことだ」と答えることにしよう。この答えは一見すると奇妙かもしれないが、誰も測定していない光にも特定の波長があるということを信じることができるのなら、誰も見ていないところにも色の印象があるということを信じることができるはずだ。どうしてもそれを信じるのに抵抗があるなら、それは現に見ている色の印象と、心の中で思い出したり思い浮かべたりしてみたりする色の印象との混同に基づくものだ。
非常に乱暴なまとめ方をするとこうなる。赤とは波長700nmの光である。波長700nmの光が赤く見えるということは、波長700nmの光が波長700nmの光に見えるということである。ここには、同一性に関する謎を別にすれば、不思議なことは何もない。「では、なぜあの色に見えるのか?」と問われたなら、「あの色ってどの色のことだい?」と問い直そう。そこで「今見ているまさにその色のことだ」と答えるなら「その色がまさに波長700nmの光だからだ」と、「今心の中で思い浮かべているその色のことだ」と答えるなら「心の中で思い浮かべた色の印象に対応する光の波長なんかないよ」と、別の答えを返すことにしよう。
そう、目で見た色の印象と心の中の色の印象はじかに対応しているわけではない。赤を見ながら赤を思い浮かべて、ふたつの赤を見比べることなど誰にもできやしない。それにもかかわらず、赤を目で見ているときに、心の中で思い浮かべているあの色を見ているのだという感じがするのは、両者を対応づける媒介があるからだ。それは「赤」という言葉だ。
かくして、一旦心の世界から追い出された色の印象は、言葉という糊によって再び心と接着される。他方で、もともと同じものであったはずの色の印象と光の波長とが言葉という鋏で切り離され、その対応が不思議に思えてくるのだ。
……おお、冗談半分で考え始めたのに、なんとなくそれらしくなってきてしまった。このまま続けると自分で自分の言ってることを信じ込んでしまいそうだから、この辺で考察を打ち切ることにしよう。

*1:今でも並んでいるところには並んでいる。

*2:世の職業哲学者の大部分は月給取りなのだから「月給取りではなく哲学者」という対比の仕方はおかしいのだが、もともと仮定の話なので、そんな細かいことには拘らないことにしよう。

*3:割り切った考えの人なら、「もはやこれは問いですらない。見かけ上問いの形をとった無意味な言葉の組み合わせに過ぎない」と言うかもしれない。だが、そこまで断言してしまっていいものかどうか、ちょっと迷うところだ。

*4:逆に、両者が同じ色に見えていないということを積極的に支持する根拠もないが、今は与えられた前提から「等しいものに等しいものが等しくないという不合理」が帰結しないということだけ言えればいいので、そのことは問題にならない。