表裏一体

問題


最近の私は明らかに認識と言う病に侵されています。例えば、雑誌の隅に次のように書かれたプラカードをもった三毛猫*1のイラストがあるとします。

この裏がQUOカード応募台紙であるが故に私が切り取られてしまうのは少々残念ではある。
ザ・スニーカー」2005年12月号16ページ
このイラストは単に応募台紙の偽造(コピー)を防止するためのものなのですが、私はこれを見て
このキャラは自分の描かれている紙の裏側を認識していると言えるだろうか
と真剣に悩んでしまいました。*2

回答その1

主文
このキャラクター*3は自分の描かれている紙の裏側を認識していると言える。
判定理由
プラカードは吹き出しの代用物であり、そこに書かれた文はプラカードをもつキャラクターの台詞を表示しているものと考えるのが妥当である。そこで、プラカードに書かれた文を吟味すると、当該キャラクターが描かれた紙に直截かつ明白に言及しているのであり、その言及内容も事実に相違ない。従って、当該キャラクターは自身が描かれた紙の状況を正しく認識した上で、それについて発言したものと考えるのが客観的合理的にみて妥当である。なお、当該キャラクターが事実を誤認し又は認識欠如しているにもかかわらず、たまたま漫然と発言した冗語が事実と一致していたという可能性も論理的には考えられるところだが、その考えを積極的に採用する特段の根拠は認められないため、検討に値しない。

回答その2

この問いについて考える前に、シャミセンという猫が住まう場所がどこにあるのか、ということを考えてみましょう。言うまでもなく、それは現実世界ではありません。仮に現実に存在するすべての猫を捕まえてきて、一匹一匹その素性から何からすべて調べ上げたとしても、その中にはシャミセンはいないことでしょう。もしかしたら、「シャミセン」と名付けられた別の猫を見出すことができるかもしれませんが。
シャミセンは現実世界の住民ではなく、ただ物語の中に存在します。その物語とは、具体的に言えば「涼宮ハルヒ」シリーズです。「ハルヒ」の物語が果たしてひとつの世界として完結しているのか、それとも別のあり方をしているのか、というのは非常に興味深い問題ではありますが、今ここで取り上げるのは得策ではありません。ただ、シャミセンは現実世界には存在しないということだけ強調しておけば十分でしょう。
さて、問題で言及されている絵がシャミセンのものだとして、シャミセンは果たしてそれが描かれている紙の裏側を認識しているのでしょうか? シャミセンは常軌を逸した猫ですから、そのような認識があったとしても別におかしくはありません。ただ、シャミセンの台詞を根拠にしてそう主張できないことは明らかです。なぜなら、「この裏」が本当にこの絵が描かれた紙の裏側のことを指しているとは言えないからです。
たとえば、テレビのニュース番組で首相官邸前から中継を行っている場面を想像しましょう。アナウンサーは「今、私の後ろには警備員が大勢立っています」と状況説明をしています。何か問題ごとでもあったのでしょうか。さて、このアナウンサーの発言を聴いた視聴者は「私の後ろ」という言葉がどこを指しているものと理解するでしょうか。テレビの裏側のことでしょうか? もちろんそんな馬鹿なことを考える人はいないでしょう。アナウンサーが立っている場所の後ろのことであり、その光景が映し出されたテレビとは何の関係もありません。
シャミセンの場合も同じことです。シャミセンは現実世界にはいないのですから、シャミセンが言った言葉「この裏」も現実世界に存在する紙の裏側でないことは疑い得ません。おそらくはシャミセンがもったプラカードの裏側でしょう。
プラカードの裏側になぜQUOカード応募台紙があるのか、とか、その応募台紙を切り取ったときになぜシャミセンも切り取られてしまうのか、とか、よくわからないことも多いのですが、なに、猫畜生ごときの言うことに深い意味があるわけもありません。捨てておくのがいちばんでしょう。

回答その3

問いで取り上げられている絵はおそらくはもともと「ハルヒ」のシャミセンの絵であったのだろうが、「ザ・スニーカー」に流用されたときに、物語との関係を断ち切られている*4ので、プラカードの文言は「ハルヒ」のキャラとしてのシャミセンの言葉ではない。
プラカードの文言は、「ハルヒ」に由来するシャミセンの絵に添えられることによって、通常の言語使用とは別の機構をもっていることを表している。従って、そこでの「私」は、現にその文を書いた人物*5を指示するわけではない。一方、件の絵は「ハルヒ」の物語の一部ですらなく、この絵だけで何か独自のキャラクターを構成するには至っていないので、「私」はいかなるキャラクターを指示しない。プラカードに書かれた文はいわば「発話主体なき発話」である。
このような「発話主体なき発話」で扱われた事柄が認識に関するものであるならば、それは「認識主体なき認識」を表している。*6
従って、当初の問いに対する回答は「ここにはキャラはいないので、問いそのものが成立しない」ということになる。

*1:【原註】一部の方々には「シャミセン」という名で知られる猫であります

*2:引用にあたって、タグを若干改変しています。

*3:ここでは「キャラ」と「キャラクター」の区別を行わず、前者は後者の省略形だとみなす。

*4:もちろん、その絵を見た読者に「ハルヒ」を連想させるという心理的効果は残っているので、全く無関係だというわけではない。しかし、いま念頭においている関係はそのような種類のものではなく、絵が物語の一部であるかどうかという、より強い関係である。

*5:たぶん、「ザ・スニーカー」の編集者だと思う。

*6:「発話主体なき発話」や「認識主体なき認識」という考えは、シャミセンの遠い精神的先祖、チェシャ猫のニヤニヤ笑いを思い起こされる。