昔はよかった

長かったような短かったような人生もそろそろ終わりにさしかかってくると、毎日憂鬱なことばかりで、昔を懐かしんでばかりいる。ああ、昔はよかったなぁ。
けれど、過去の記憶を辿ってみると、特に「よかった思い出」ばかりというわけではなくて、むしろ辛かった思い出や苦しかった思い出のほうが多い。「若い」と「苦い」はよく似ている。
では、どうして「昔はよかった」と思ってしまうのかといえば、若い頃には未来に希望があったからだ。「今はつまらない日々を過ごしていても、そのうち何かいいことがあるに違いない」という根拠のない信仰にも似た気持ちがあって、楽観的でいられたのだ。
老境に至って、若い頃の予想や夢がことごとく潰えてしまったことを知ると、もはや未来への希望はほとんどのこされていない。自分自身の限界を知ることができたのだから、若い頃に比べれば多少は進歩したのかもしれないが、もちろん若い頃に求めていたのはそのような進歩ではない。
あとは、いかに苦しまずに死を迎えることができるかが最大の関心事だ。
人は老いれば、あとは死ぬだけ。死んでしまえば何も残らないのでみな平等だ。では、死の一歩手前ならどうだろうか? それまでの人生で何か成し遂げた人は人生について何か別の感慨をもつのだろうか、それとも完全な無を前にして過去の思い出には何の意味もないのだろうか?
そんな事は想像しても始まらない。だが、自分と同世代の人で、スタート地点はさほど違わなかったはずなのに、今では社会的地位も名声も大きく違ってしまった人々の評判を見聞きするたびに、多少の嫉妬と羨望とともに、彼ら彼女らの内心を想像してみたくなるのだ。みんな「昔はよかったなぁ」と思っているのか。それとも「これでよし」と思っているのか。
ところで、京都の湯豆腐はやたらと値段が高いが、あれはなんでだろう? 豆腐以外に何か高級食材が入っているのだろうか。たとえば、キャビアとかフカヒレとか燕の巣とか。それとも一丁1000円くらいの豆腐を使っているのだろうか。