「なぜ人を殺してはいけないのか」を巡って

  1. はてな 倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。
  2. REVの日記 @Hatena::Diary - 釣堀:「なぜ人を殺してはいけないか」
  3. Diary/2006-02-15 - August Doujin Data Base
  4. 「で、みちアキはどうするの?」 - あれで釣られんじゃ安いサカナだ

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いそのものにはあまり興味はないのだが、いちおう私見を述べておく。
殺人は「してはいけないこと」のカテゴリーに属する一つの事例だが、同時にこのカテゴリーを成り立たせる根拠でもある。極端な言い方をすれば「殺人≒してはいけないこと」だ。
たとえば、強姦のことを「魂の殺人」などという比喩で表現することがある*1が、これは殺人が「してはいけないこと」の典型であることを踏まえたレトリックだ。
また、死刑制度の是非を議論するときに廃止論者かしばしば「死刑とはつまるところ国家による殺人である。従って死刑はしてはいけない」と主張するのも、殺人の禁止があらゆる倫理的・宗教的・法的規範のうちで最も根源的なものの一つであるという了解に基づく。*2
殺人とは、ある行為が「してはいけないこと」に属するかどうかを判定するときの規準の一つである。この規準は絶対ではない*3し、これ以外にもいくつかの規準がある*4と考えられる。しかし、殺人を一旦「してはいけないこと」のカテゴリーから取り出したうえで、他の規準と照らし合わせてみて殺人を再度そのカテゴリーに含めることができるのかどうかという思考実験を行うには、殺人は「してはいけないこと」と密接に絡みすぎている。
要するに、現にわれわれが了解している「してはいけないこと」のカテゴリーを前提にする限り、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、これ以上の根拠づけができない。そして、現にわれわれが了解している「してはいけないこと」のカテゴリーを現にわれわれが了解しているということは、われわれの生活に関する端的な事実であり、それに対して疑問を呈するのは困難だ。その困難に挑んでさらに問いを続けるとすれば「なぜ、われわれの規範において『してはいけないこと』の典型が殺人であるのか」と問うことは可能かもしれないが、そのような問いにはあまり興味がないので、これ以上は続けない。
で、ここからが本題。余談が長くなりすぎたので本題のほうは簡単に。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して上記2では「人を殺してはいけない」と言っている主体の欠如を指摘している。それを受けて、3では、この問いを表す疑問文の主語の不在*5というふうに再整理している。ここで「主語」という言葉が出てきたのを受けて、4で次のような反論(?)がなされている。


ぼくは、日本語は主語なしで使えるところが面白いんだ、と思っているので。学校では「省略されている主語」を指摘させるような問題をやらされるんで、必要だと考えがちだけど、省略されてるんじゃなくて、なくても日本語の文章は成立するんだ、って考え方です。「ぼく」と「あなた」と「だれか」と「みんな」のことを重ね合わせて表現できる日本語の可能性を、あえて狭めることはしたくないですね。(考えるときは個別に考えてもいいですけど)
あれ、なんで質問の不備についての指摘が日本語文法の話になっちゃうの?
この意表を衝く展開が非常に面白く、大いに楽しませて貰った。

*1:この比喩をつきつめると強姦事件の被害者を「生ける屍」扱いしかねないのであまり適切ではないと思うが、今はその点は問題にしない。

*2:逆に死刑存続論者は「死刑は殺人ではない」と主張するか、「死刑は殺人の一種ではあるが、例外的に『してもよい殺人』である」と主張するか、どちらかを選択することになるだろう。理屈の上では「殺人は一般にしてもよい行為である。そして死刑は殺人である。よって死刑はしてもよい」という論法もあり得るが、実際にそのような論法で死刑廃止論者の主張に抗した例を知らない。

*3:従って「してもよい殺人があるのかどうか」という議論が成立する余地がある。

*4:たとえば、他人の財産の侵害にあたるかどうかということも「してはいけないこと」というカテゴリーにとって重要な規準となる。

*5:言語論的転回!