どこまで逃げても泥臭い世界

アキヤマニア - 僕の考えるブログ文章術 第6回:向上心が低いを読んで何となく違和感を抱いたのだが、その正体がわからずしばらく頭を抱えて考え込み、ようやくその原因がわかった……つもりになった。
それは、


これはフリーター問題になぞらえられる類のものではなく、個人がその発言レベルを意識的にチョイスしていくというネットスタイルの変革です。
という言葉のわりに、フリーターやニートに代表される現代日本の社会問題と似ているように感じられたということだ。たとえば「向上心という言葉の罠」という節など、二、三の言葉を置き換えれば、そのままフリーターに向かって「向上心が低い」と言う人への批判ともとれる。
また、

仮にその言説にしたがって、文章力を向上させてみたとしましょう。それはやはり文章力というスキルを獲得したというだけの話であって、実り豊かな(なんじゃそりゃ)ブログ生活が送れるかといえば、まったく別問題です。それは語学力を高めれば、多くの資格を取得すれば、豊かな人生を送ることができるという言説にさも似たりです。
ここではネット論を実社会における人生論に喩えている。やはり、スズキトモユ氏自身も実社会とネット界とのアナロジーを意識していたのだろう。
もちろん、実社会とネット界とのアナロジーは常に成り立つというわけではないし、細かく突き詰めて考えれば相違点のほうが多いだろう。アナロジーというのはもともとそういうものだ。でも、現実の社会の泥臭さに対応するものがネットの世界にもあるというのは確かだと思う。
「個人がその発言レベルを意識的にチョイスしていく」とか「ネットスタイルの変革」と言えば妙にポジティブだけれど、「なんでもかんでも全世界発信」から「発言レベルを意識的に選択」へと変革できた人はごく一部ではないだろうか? あのスズキトモユ氏が本気で「ネットスタイルの変革」を信じているとは考えにくい。

「自分の言葉はすべて外部に向けたものでありたい」と考える方はブログ(サイト)だけで発言すればいいし、「仲間内だけのやりとりでかまわない」と考える方はSNSmixi)だけで発言してもよい。「なんでもかんでも全世界発信」ではなく、「発言レベルを意識的に選択」していく時代なのです。
この最後の一文は、むしろこう書かれるべきだったのではないだろうか。

「だれでもかれでも全世界発信」ではなく、「発言者クラスが無意識的に分化」していく時代なのです。

補足

上で「あのスズキトモユ氏」と説明抜きで書いたが、これではわけがわからない人も多いと思うので、参考のためスズキトモユ氏の過去の文章にリンクしておく。
なお、かつて「ブログ」が日本に上陸したときのウェブ日記界隈の反応を知らない人は下記も参照のこと。