数の存在について考えさせられる興味深い論考だ。でも、数と数表現を同化している(ように見える)のがちょっとひっかかる。イデアとしての数などというものをとりあえず議論から除くとしても、それでもやっぱり数と数表現をひとまず区別しておく必要はあるだろう。
たとえば、「2」という数表現と「最小の正の偶数」という数表現がある。これらは表現としては異なっている*1が、常識的にはこれらふたつの表現は同じ数を表していると考えられる。
イデア論を持ち出せば、これらふたつの表現はともに同じ数イデアを分有しているのだと説明されるのかもしれない*2。では、イデア論を拒否すればどうなるのか。2と最小の正の偶数は異なる数だということになってしまうのか? それはちょっと勘弁願いたい結論だ。
数と数表現とを「書かれた数」の名の下に同一視してしまうと、別様に書かれた数は別の数だという極端な主張を退けるのが難しくなる。何らかのテクニカルな手段で数に関する同一性言明を処理する手だてはあるのかもしれないが、まずは一旦数と数表現を区別しておいて、しかるのちに数表現だけを残して数を消去する手だてを考えるのが筋ではないかと思う。
さて、このようにして暫定的にその存在を認められた数とはどのような特徴をもつ存在者だろうか。以下、思いつくままに特徴を挙げてみよう。

  1. 目には見えない。また、他の感覚器官で捉えることもできない。
  2. 時空間のうちに位置を占めることがない。
  3. ある種の表現*3と指示関係に立つことが可能である*4
  4. いかなる事物や事態とも因果的交渉をもたない。
  5. さまざまな種類の計算を伴って他の数とある種の論理的(?)関係をもつ。
  6. 計算済みであれ、未計算であれ、存在様式に変わりはない。

このような特徴をもつものを果たして「存在者」と呼ぶことができるだろうか?*5

おまけ

上の文章とは少し観点は異なるが、Log of ROYGB - シュレーディンガーの円周率も数と数表現*6の区別を強く意識した議論で興味深い。この種の問題に興味のある方はぜひどうぞ。

*1:「異なる表現」という表現は多義的である。ここでは表現タイプが異なっているということを言わんとしているが、もちろん同時に表現トークンも異なっている。表現タイプは同じだが表現トークンのみが異なっている数表現を例に挙げて議論を行うことも可能だが、タイプとトークンの区別に馴染んでいない読者には理解が難しいかもしれないので、ここでは簡明な例を選んだ。

*2:だが、正直いってイデア論のことはよく知らない。学識豊かな方のご教示を待ちたい。

*3:この文章で「数表現」と呼んだもの。それらは単独の数字、数字の組み合わせ、数字とその他の記号の組み合わせなどさまざまな種類のものがあり、中には一切数字を含まない数表現もある。たとえば上で例示した「最小の正の偶数」がそうだ。

*4:ただし、常に指示関係が実現しているとは限らない。

*5:当然のことながら、この問いは投げっぱなしだ。解答など知らない。

*6:リンク先では「表記」。主に進法・進数を取り上げている。