三人称或いは二人称の信念文について


三人称或いは二人称の信念文というのが(通常の文脈で)真偽が取り敢えず決定可能という意味での有意味な文として存立するのかどうかというのは以前から疑問だった。勿論、小説の中の登場人物について使用されている場合、登場人物にとって小説家というのは創造主(デミウルゴス)なので、それはOKだろう。しかし、私たちが日常的に発話の相手や赤の他人について、believeという動詞を使うのはどうか。これを考えながら、日本語の「たい」という助動詞を思い出していた。


私はセックスしたい。


という文は文法的に正しい。しかし、


彼女はセックスしたい。
あんたはセックスしたい。


は誤りである。ただ、


彼女はセックスしたいのかな。
彼女はセックスしたいのかも知れない。


と疑問や推量のかたちにすれば正しくなる。三人称或いは二人称の信念文にはこれと似た問題があるように思うのだが、その先は考えていない。

順序は逆になるが、まず「たい」のほうから。
「彼女はセックスしたい」が文法的に誤っているとは思わない。たとえば、「ほら、彼女の尻尾を見てみろよ。パタパタと振っているじゃないか。それに耳もひくひくしてる。そう、彼女はセックスしたいんだ」と断定しても文法外れということにはならないだろう。耳と尻尾の動き具合から本当に彼女の性的欲求がわかるのかどうかは疑問だが、それは文法の問題ではない。
ただし、これには次のような反論が考えられる。
上の例文では「たい」が単独で用いられているわけではなく、その後に「んだ」が付け加えられている。これが例えば「私はセックスしたいんだ」なら、「んだ」があろうがなかろうがちょっとしたニュアンスの違いに過ぎないが、件の例文から「んだ」を抜くと非常に奇妙な言い方になってしまう。ここでは「んだ」は「に違いない」の言い換えであり、そのように断定する”私”の存在が背後に前提されている。これは、「のかな」と疑問を呈する”私”、「のかも知れない」と推量する”私”と同じことだ。よって、三人称主語のもとで「たい」が単独で用いられた場合は、やはり文法的に誤っていると言わざるをえない。
反論終わり。
この反論が十分に説得力のあるものかどうかは疑わしい。もしそうでないとすれば、以下の再反論は藁人形に向けて矢を射るような愚行ということになるだろう。だが、とりあえず試射のつもりでやってみよう。
三人称主語のもとで「たい」を用いることが文法的に許される事例として、冒頭の引用文中で例示されているのは「彼女はセックスしたいのかな(疑問)」と「彼女はセックスしたいのかも知れない(推量)」だった。そこに、先ほど「彼女はセックスしたいんだ/に違いない(断定)」を付け加えたところだが、これらはすべて”私”が”ある事柄”について疑問を抱いたり、推量したり、断定したりするという共通の構造をもっている。では、これらの例文の共通部分である”ある事柄”とは何か? 言うまでもない。”彼女はセックスしたい”だ。
つまりこういうことになる。

  • 彼女はセックスしたい……のではないかと私は疑う。
  • 彼女はセックスしたい……のかもしれないと私は推量する。
  • 彼女はセックスしたい……に違いないと私は断定する。

このように、それぞれの共通部分として析出された”彼女はセックスしたい”を言い表すために「彼女はセックスしたい」を用いることには、文法的に特に問題はないと思われる*1
この事態を比喩的に表せば、こうだ。過酸化水素(H2O2)という物質がある。この物質は不安定なので、放っておくとすぐに分解して水素と酸素になってしまう。保存するには水に溶かし込むしかない。つまり、過酸化水素は現実には過酸化水素水という状態でなければ存在しない*2。しかし、このことは「H2O2」という表現が化学記号の文法に違反しているということを意味するわけではない。同様に、「彼女はセックスしたい」という文が日常的な言語使用の場でほとんどあらわれることがないとしても、それが直ちに文法に反するわけではない。
さて、ここまでは意図的に触れなかったが、以上の見解はある特定の文法観に基づいている。文法というものは、ある種の抽象化によって得られた理念的、規格的なものであり、現実の言語使用状況べったりではないということ、そして、”ある種の抽象化”の際に現実の言語使用にとって本質的な事柄をいくつも捨象しているということだ。
おおざっぱにいって言語論には構文論(統語論)、意味論、語用論の三つの領域がある。狭義の「文法」は構文論に属する事柄であり、語と語の繋がり具合や語から文が構成されるしかたのみに着目する。哲学の世界では、「文法」という語をもう少し広くとって、語や文とそれらが表す対象との関係についての法則も文法のうちに含めることもある。
いずれにせよ、実際の言語使用の場において奇妙な言い回しや不自然な表現が発生するメカニズムの探究は文法研究のうちには含まれない。だから、「彼女はセックスしたい」は奇妙ではあるけれど、文法的に正しい。
「たい」の文法にばかりかかずらわってしまったが、基本的には信念文についても同じことか言える。「私はこれはペンだと信じる」という文は、端的にいって”私はこれがペンだと信じる”という事態を表す。「彼女はこれはペンだと信じる」という文は、端的に”私はこれがペンだと信じる”という事態を表す。前者について、「単に『これはペンだ』と言えばすむことに『私は……を信じる』と付け加えることで、発話者はこの文にある含みを持たせているのだ」と考察をするのは語用論の仕事であり、意味論の仕事ではない。「他人の信念を直接知るのは神ならぬ身には不可能だから、『彼女はこれはペンだと信じる』という発話は有意味ではない」というのも、語用論のレベルの発想であり、文法とは関係がない。そもそも、日常生活と小説とで文法が異なっているとは考えにくい。
ここで大急ぎで付け加えておかなくてはならない。いま、言語論の三領域を区分したわけだが、それぞれの領域が完全に独立自存しているわけではない。また、言語とは現に用いられている言語のことであって、言語使用者を抜きにした言語もなければ、世界と関わりをもたない言語もない*3。誤解を恐れずにいえば、意味論や構文論は不完全な考察に過ぎない*4。ただ、残念ながら、人間はある程度以上に複雑なものごとを一挙に全体として把握してその秩序を隅々まで見通すことができない。
言語には何らかの秩序があり、秩序に反した言語使用、すなわち奇妙な言い回しには、それぞれどういった次第でそれが奇妙な言い回しになっているのかという理由がある。だが、その理由は一様ではない。

  1. がいるベッド狼神の上に。
  2. 黄鉄鉱の価値は毛並みがいい。
  3. 今、わっちは林檎を囓っていることを知らぬ。

1は言語の構文論的秩序に、2は意味論的秩序に、3は語用論的秩序に反している*5
信念文は、それを実際に用いたときの語用論的特徴*6が複雑なほかに、その意味論的機能*7も独特でややこしい。
たとえば、

  1. アマーティはホロの心がロレンスから離れたと信じる。
  2. ホロは太古の狼神である。
  3. よって、アマーティは太古の狼神の心がロレンスから離れたと信じる。

この推論は直観的には妥当ではない*8。信念文には代入則は一般には適用できないからだ。では、どういう場合に代入則が適用可能で、どういう場合に適用不可能か、とか、さらに話を広げて、信念文を含む推論の妥当性の基準はどのようなものか、とか突き詰めて考えると、途方もなく複雑怪奇な世界が開けてくる。
他方、

  1. 私はホロの心がロレンスから離れたと信じる。
  2. ホロは太古の狼神である。
  3. よって、私は太古の狼神の心がロレンスから離れたと信じる。

これを実際にアマーティが言ったとすれば非常に奇妙なことで、その発話の有意味性というかアマーティの心理状態には暗雲が投げかけられることにはなるのだが、それはそれとして、こと「信じる」という語の意味については上の三人称の例と変わるところはなく、当然のことながら非妥当な推論である。従って、意味論的考察の場では、主語が一人称の場合と三人称(または二人称)の場合を特に区別する必要はい。
もちろん、Living, Loving, Thinking - 信じるという動詞(およびLiving, Loving, Thinking - 感覚動詞とか)で行われている考察は意味論的なものではなく、基本的に語用論的な考察なのだが、最終節に至って現実の発話状況から少し距離をおいた話題へと進んでいる。


宗教に話を移せば、〈信〉が強調される場合、同時に〈不信〉が喚起される。〈信〉と〈不信〉とを分かつのは合理的な根拠ではない。或いは、合理的なことを信じるのは信じるに値しないということになる。或いは、合理的な根拠に、さらには素朴な直観に逆らって、信じなければならない。
「私は神を信じる」という信条告白だけでなく、”私が神を信じる”という事態そのものの特質を「信じる」という動詞の分析を通じて論じようとするなら、意味論的考察は欠かせない。そこまでは手が及ばないにしても、少なくとも言語には意味論的側面があるということに目配りをしておかなければならない。もし、その目配りができていれば、いま引用した文章の3番目の文は次のように言い換えられていただろう。

或いは、合理的なことについて、「それを信じる」と表明するのは信じる言うに値しないということになる。
これで信念文の話はおしまい。
どうでもいいが、Living, Loving, Thinking - 金庸論文を見て、部屋の片隅に金庸の小説が10冊以上積みっぱなしになっていることを思い出した。ああ、この文章を書く時間だけで1冊くらいは読めたかもしれないのに……。

*1:これは日本語文法での話。印欧語族だと、仮定法とか接続法とかにかかわるややこしい問題があるとは思うが、よくは知らない。

*2:中学生レベルの化学知識で書いているので、もしかしたら大間違いしているかもしれないが、ものの喩えなので御寛容願いたい。

*3:ここでいう「言語」とは自然言語のこと。人工言語は少し事情が異なるかもしれない。

*4:語用論は言語についての完全な考察だ、と言いたいわけではない。念のため。

*5:人によっては、2も「論理的構文論」違反だと言うかもしれない。

*6:言語の意味と発話の意味で「発話の意味」と述べたもの。

*7:同じく「言語の意味」

*8:3は多義的な文であり、ある解釈によれば、この推論が妥当になることもある。ただし、その解釈はあまり自然なものではない。