作者評と読者評


 何もわかっていないばかな女の子がさわいでいるだけだ、と決めつけてしまうことはたやすい。
 しかし、それは結局、いままで「低俗」なSFやホラーやライトノベルを頭ごなしに排斥してきた態度と同種の姿勢に過ぎない。

 つまりこういうことだ。たとえば、ここにある作品があるとする。そしてその作品を読んで、ひどく下らない内容だと思ったとする。しかし、その作品には熱心なファンがいるとする。
 そのとき、ただ一方的にこんなものは下らない、こんなもので満足している奴らはばかだ、と断定してしまうことはたやすい(エロゲなんてやっていないで文学読め、とか)。
再三言っていることだが、Something Orangeの各記事には見出しがついていないので、言及したりリンクしたりするときに困る。困るのは言及する側の事情であって、海燕氏にとってはどうでもいいことかもしれないが、「ことば」による話しあいやつながりを希求するのなら、その程度の配慮をしてくれても罰は当たらないと思うのだが、どうだろう? もし、何か特別な理由があるのだとしたら仕方のないことだが、単に面倒だからつけないというのなら、再考を求めたい。別に凝った見出しをつける必要はなく、「○○について」でもいいのだし、何なら本文の最初の一文をそのまま見出しにしても構わないのだから。
それはさておき、本題に入る。
上で引用した2つの文章では、ある作品について、それが駄作であると評価することと、その作品の読者について、彼らが愚かであると評価することとが同列に語られている。実際、作品評と読者評をちゃんぽんにした軽はずみなレビューは多い*1が、あるべき理想の批評を模索する場においては、いちおう両者は区別しておくべきではないだろうか。
たとえば、同じちゃんぽん批評でも、「この小説は下らない。だから、こんな下らない小説を面白がって読む奴らはバカだ」というものと、「この小説を面白がって読む奴らはバカだ。だから、この小説は下らない」というものとでは論理構成が異なっている。前者に対しては「どんな小説を面白がろうが人の勝手だ」というのが反論になるだろうが、後者に対してはそれでは反論にならない。後者に対する反論は、たとえば「どんな読者に面白がって読まれようが小説の知ったことではない」というような形をとることだろう*2
今のはごく単純化された例に過ぎない。ここで言いたいのは、作品評と読者評は別物だという、ただその一点である。
海燕氏の議論をみると、2つのタイプの批評――独善的な見下しと相対主義による価値判断の回避――を対置している。だが、対置された一方に複数のヴァリエーションがあるのだとすれば、同様に他方にも複数のヴァリエーションがあると考えるのが自然ではないか。作品評における相対主義と、読者評における相対主義もまた区別されるべきだろう。
海燕氏の論法は、現実にありふれた2タイプの考え方を一旦は対照的なものとして捉えた上で、両者に共通する要素――海燕氏が多用している言葉でいえば、「たやすい」――を括りだして、さらにそれに対する第3の道を求めるというものだ。その方向性そのものに異議があるわけではないが、ただ、退けられるべき第1の道と第2の道の内実をもう少し細かく検討しておいたほうがいいのではないかとは思う。

追記(2007/02/25)

よく考えると、見出しに間違いがあった。本当は「作品評と読者評」だ。ごめん。
ついでなので、関係ありそうな話題を扱っている魔王14歳の幸福な電波 - 人が作品に接する態度二類にリンクしておく。

*1:ときにはそこに「こんな小説を書く奴は人倫にもとる」などといった作者へのコメントが加わることもある。

*2:ここで「反論になる」というのは、「有効な反論になる」という意味ではない。有効だろうが無効だろうが、ともかくある意見に対する反対意見として構成されているということなので、誤解なきよう。