『狼と香辛料 (4)』の感想文

狼と香辛料 (4) (電撃文庫)

狼と香辛料 (4) (電撃文庫)

先日、こんな文章を書いた。

今日は休日なので気合いを入れて『狼と香辛料 (4)』の感想文でも書こうと思っていたのだが、いざパソコンの前に座ると気合いが抜けてしまった。4巻ともなると新鮮味はもうないし、今回も入浴シーンはなかったし、他の人の感想文をいくつか読んだらおなかいっぱいになったし、今回はもうパスしようと思う。
その後、気が変わった……というわけではない。やっぱり今回はパスだ。感想文を書く気にはならない。
「では、この文章は何?」
うーん、『狼と香辛料 (4)』の感想文ではない、それ以外の何かだとしか言いようがない。何を書けば感想文になるのか、その条件は定かではないのだが、少なくともこの文章では『狼と香辛料 (4)』を読んで感じたことは一言も書いていないし、そもそも『狼と香辛料 (4)』の内容に言及してさえいない。行きがかり上、『狼と香辛料 (4)』のタイトルには触れているが、本のタイトルを書いただけでその本の感想文を書いたことになるなどと考える人はいないだろう。従って、この文章が本当は何であるのかはともかく、少なくとも『狼と香辛料 (4)』の感想文ではないということだけは確かだと思われる。
「でも、見出しにははっきりと書いてあるじゃない? 『狼と香辛料 (4)』の感想文、って」
見出しは見出しだ。ボリス・ヴィアンの『北京の秋』なんか、北京とも秋とも関係がない。いや、実は実物を読んだことがないので、もしかしたらちょっとぐらいは北京の秋について書いているかもしれないけど。
また、逆の例としては、ルネ・マグリットの「これはパイプではない」というのがある。これはパイプではない、と言っておきながら、でかでかと大きくパイプが描かれているという代物だ。
狼と香辛料 (4)』の感想文ではないものに、「『狼と香辛料 (4)』の感想文」という見出しをつけることは論理的に十分可能だし、逆に「『狼と香辛料 (4)』の感想文」という見出しがついているからといって、それが『狼と香辛料 (4)』の感想文だということにもならない。もちろん、「『狼と香辛料 (4)』の感想文」という見出しつきの『狼と香辛料 (4)』の感想文があってもおかしくはないが、少なくとも見出しと本文の内容との関係は論理的必然性をもったものではない。ある意味では、単なる偶然だ。
「じゃあ、看板に偽りあり、ということになるね。内容に見合っていない、不適切な見出しというわけだ」
別に偽りはないし、不適切な見出しでもない。また、先ほど例に挙げた『北京の秋』と「これはパイプではない」はどちらもある種の異化効果を狙ったものだと思われるが、この文章のタイトルはそのような趣旨のものでもない。実に素直で真っ正直な見出しだ。
たとえば、この文章の見出しを隠して、誰かに読ませてみたとしよう。読ませる相手は誰でもいい。まあ、日本語が読めるという条件は必要だが、それ以外には特殊な知識も技術もいらない。『狼と香辛料 (4)』を読んだことがなくてもいいし、『狼と香辛料 (4)』という小説があることを知らないような人でもいっこうに差し支えない。
さて、その人がこの文章を読み終えたところで、次のように尋ねてみるといい。「この文章の見出しは何でしょうか?」と。そしたら、十中八九、次のような答えが返ってくるはずだ。「そりゃ、『狼と香辛料 (4)』の感想文、でしょ?」という答えが。
先に述べたように、一般に見出しと本文の関係に論理的必然性はないから、この文章の見出しが「『狼と香辛料 (4)』の感想文」であることもまた必然的なことではない。だが、予備知識のない人が、見出しを隠した状態で読んでも容易にそれを推測できるのなら、少なくとも不適切な見出しではないと言っても差し支えあるまい。
この文章に「『狼と香辛料 (4)』の感想文」よりもっとふさわしい見出しは考えにくいと思うのだが、如何?