芸術を論ずることの本当の難しさ


三角形こそが生涯賭けて探求すべきテーマなのだ、と思い定めてしまった芸術家に対して、俺が批評家にやってほしいと思うのは、三角形というテーマをどれだけの水準で達成できているのかの客観的技術的評価であって、三角形というテーマがほかのテーマに比べて優れているか劣っているかの議論ではない。そんなのは余計なお世話だ。まあ、別に世の中の批評家は俺のために批評書いてるんじゃないわけで、どうとでも好きにやればいいのではあるが。
たとえば、ある芸術家が「三角形こそが生涯賭けて探求すべきテーマなのだ」と明言しており、その言葉に一点の曇りもないとしよう。つまり、彼もしくは彼女の信念に揺らぎはなく、決して嘘をついているわけではない。しかし、それにもかかわらず、その芸術家が生涯賭けて探求しているテーマが実は三角形ではなく四角形だったということは十分あり得る。
陳腐な言い方をすれば、芸術作品が語りかけてくる声なき声に耳を傾け、その作品の本当のテーマを発掘して言語化すること、それが批評家の使命ではないかと思う。おそらく、それもまた芸術家にとっては余計なお世話なのだろうが。
あるテーマ、ある基準に対して実作品の達成の度合いを測定し評価するということも、もちろん批評家の重要な仕事ではある。だが、四角形の作品を目の前にして「この作品には余計な角がひとつあり、三角形としての水準は著しく低い」と評価しても仕方がない。技術批評を行うときでも、多くの場合には*1適切な評価基準の採択という作業を抜きにするわけにはいかないだろう。しかし、抜きにするわけにはいかないこの作業こそが芸術を論ずる際の最大の難関であり、しばしば抜きにされてしまうことでもある。

*1:「いかなる場合にも」と言いたいところだが、もしかすると例外があるかもしれないので、ここでは少し控えめに「多くの場合には」と表現しておく。