本を読んでも感想文を書く気がしない

チーム・バチスタの栄光

チーム・バチスタの栄光

最近、読書量も減っているが、それ以上に感想をまとめて文章にする作業が億劫になっているので、読書感想文を書くことが少なくなってきたのだが、今日この本を読み終えたという記念に何か書いておくことにしよう。ただし、あまり時間がないので走り書きだ。
チーム・バチスタの栄光』というタイトルからは、何だか知らないが「チーム・バチスタ」という名前のチームがあって、そのチームの栄光についての物語なのだろうという印象を受ける。だが、この作品はもともと『チーム・バチスタの崩壊』というタイトルだったのが、出版にあたって改題されたのだという。改題の理由は書かれていないのでよくわからないのだが、ともあれ当初の印象ほど単純な話ではないことがわかる。
ただし、この小説が単純な話でないのは、何もプロットが複雑だからではない。大学病院で心臓手術の際に術死が続出し、調査をしたところ連続術死の理由が判明する。要約すればこれだけだ。では、どういう次第で単純な話ではないようになっているのか? それは、作品随所に仕掛けられた微妙な「ずらし」または「ねじれ」の効果による。
小さなところでは、主人公の一人称で語られる地の文、後半に登場する探偵役と病院関係者たちの会話など。また、主人公や探偵役の組織内での位置づけにも「ずらし/ねじれ」効果が見て取れる。さらに、関係者相互の人間関係、そしてそれらの関係が徐々に明らかになっていくプロセスにも。
謎の構造や解明の手順、最後に明かされる真相はどうか。不思議なことに、これらの要素については、ほとんど「ずらし/ねじれ」効果が見あたらない。つまり、ミステリとしては*1驚くほど平板なのだ。しかし、それはこの小説の欠点ではない。プロット派*2の秀作と言っていいだろう。ただ、できればハードカバーより文庫か新書で読みたかった。

*1:この言い回しにはミステリというジャンルをどう見るかという大きな問題が潜んでいるのだが、今はそこまで踏み込まない。ひっかかる人は読み飛ばしてもらいたい。

*2:ミステリを「トリック派/プロット派」に二大別する分類方法がある。ミステリが今ほど拡散する前の分類方法なので、今ではほとんど使う人もいないが、厳密な分類ではなく、大ざっぱな把握のためなら、今でもある程度使えるのではないかと思う。