パラダイスではない楽園にて

「楽」という漢字にはふたつの音がある。「がく」と「らく」だ。「器楽」「奏楽」などは「がく」、「快楽」「極楽」などは「らく」と読む。つまり、音楽関係の言葉では「がく」、楽しさに関わる言葉では「らく」だ。よって、同じ「楽園」でも「楽しい園」なら「らくえん」、「音楽の園」なら「がくえん」と意味によって読み分けることになる。とはいえ、実際に「楽園」を「がくえん」と読む事例は稀で、すぐ思いつくのは数年前に公開された映画『バルトの楽園』くらいだ。これは捕虜収容所でベートーベンの第九を演奏する話で、収容所はどう考えてもパラダイスではないから、当然「がくえん」ということになる。
さて、『楽園ヴァイオリン』は、『特別』な才能を持った少年少女だけが入れる『特別』な塾を舞台にした物語だ。俗世間から離れた一種の理想郷、夢のような世界といえるかもしれない。そこで、つい「らくえんヴァイオリン」と読んでしまいそうになるのだが、表紙を見ても奥付を見ても、タイトルにはしっかりと「がくえん」とルビが振られている。少々穿った見方をすれば、このタイトルには「一見すればパラダイス、しかしその内実は収容所」という意味がこめられているのかもしれない。いかにも友桐夏らしいタイトルだ。
作者のあとがきによれば、この作品は「盤上の四重奏〜バック・グラウンド・ミュージック〜」というタイトルで雑誌に掲載された短篇に加筆修正したものを「第一楽章」とし、その後に「第二〜第四楽章」を加えたものだという。原型短篇は読んでいないが、タイトルから察すると前作『盤上の四重奏 〜ガールズレビュー〜 リリカル・ミステリー (コバルト文庫)』の番外篇という位置づけだったのだろう。そこで、『盤上の四重奏』を本棚から引っぱり出して目次をみると、

  • プロローグ
  • 第一週 駒の配置
  • 第二週 陣のかたち
  • 第三週 盤上の四重奏
  • 第四週 勝敗のゆくえは
  • エピローグ

という章立てになっている。
対して、今作『楽園ヴァイオリン』の章立ては、

  • 第一楽章 駒の配置
  • 第二楽章 陣のかたち
  • 第三楽章 盤上の四重奏
  • 第四楽章 勝敗のゆくえは

となっていて、章見出しは全く同じだ。
このように『盤上の四重奏』と『楽園ヴァイオリン』の間には密接な関係があるのだが、何が何でも先に『盤上の四重奏』を読んでおかなければならないというほどでもない。先に『楽園ヴァイオリン』を読んで気になる点があれば、続けて『盤上の四重奏』に手を出しても構わないだろう。ただし、『盤上の四重奏』自体、友桐夏のデビュー作『白い花の舞い散る時間 (コバルト文庫)』から派生したものなので、発表順に読んだほうが無難*1なのは確かだ。
未読の方へのアドヴァイスはこれくらいにして、『楽園ヴァイオリン』の内容について、ネタばらしにならない程度に感想を書いておこう。
友桐夏の作品は人間関係の微妙なねじれが生む緊張感が物語を牽引する原動力になっているものが多く、『楽園ヴァイオリン』も例外ではない。いわゆる「日常の謎」っぽいものや、機械的トリックめいたものも出てくるが、それらがこの作品の骨格をなすわではない。とはいえ、それらのミステリ的な謎の提示の仕方を眺めてみるだけでも、ストーリー構成の巧みさを窺い知ることはできる。
深層には常に何かが蠢いているが、表層に浮かび上がってくるのは些細な違和感だけ。そこから明確な謎を汲み上げ、一定の形を与える。それで一段落ついたかのように見えるが、真相はさらに別のところにある。技巧を賢しらに振り回す作家なら多重解決ものに仕立て上げるアイディアを友桐夏はさらりと流して、ストーリーの中に見事に填め込んでみせる。そして、その手続きの最中に別の謎をそっと忍び込ませておく。
終盤に至ると一気に畳みかけてそれまでの日常とは違った別の世界を垣間見せる。それは、欲望と権謀の渦巻く生々しい世界のようでもあり、また少女が空想する「欲望と権謀の渦巻く生々しい世界」のようでもある。実景なのか書き割りなのか判別のつかないまま、物語は幕切れとなり、後には奇妙な浮遊感だけが残る。
このような作風が果たしてコバルトの一般読者に受け入れられているのか。そっち方面には疎いので何ともいえないが、友桐夏の既刊は書店では冷遇されているように思われる。残念なことだ。このままコバルトで書き続けられればいいのだが、もしそれが駄目なら、ぜひこのあたりに移籍してもらいたい。
最後に、あちこちの『楽園ヴァイオリン』評を巡回していて心に残った一節を引用して締めにする。

売り上げ的に心許ないらしい点だけが本当に本当に心配で、なんとか巻き返してもらいたいなあと思います。とりあえず三作では消えずにこうして四作目が出たわけですけど、まだまだ安心はできない感じ。ああああ、何としてでも生き残ってもらいたい作家さんです。

*1:本文中で言及しなかった『春待ちの姫君たち―リリカル・ミステリー (コバルト文庫)』はどのタイミングで読んでも構わないが、私見ではこれが現段階での友桐夏のベストなので、見かけ次第入手して読むことをお勧めしたい。