ミステリという異形のもの

読者への警告

この文章は、MYSCON8:新本格誕生二〇周年記念企画・犯人当て小説 『ザ・ラスト・トリック』の感想文です。『ザ・ラスト・トリック』の内容に触れるので、未読の人は次のリンク先から当該作品を入手のうえ、熟読して自分なりの推理を組み立ててから読んで下さい。それが面倒な人は、以下の文章を読んでも時間の無駄なので、ブラウザを閉じるなり、他のページへ移動するなりして下さい。

安眠練炭の推理と誤謬

『ザ・ラスト・トリック』は労作ではあるが、犯人当て小説としてはあまり高く評価はできない。なぜ高く評価できないかといえば、いくつかの欠陥により、論理的な推論によって事件の真相を言い当てることがほぼ不可能だからだ……と書くと「お前の推理が外れていたから、負け惜しみを言っているだけなんだろう?」とツッコミを入れられそうだ。
実際のところ、真相の一歩手前まで迫りながら、完全に読み切れなかった悔しさもあるので、このツッコミは全く外れているわけではないが、しかし単純に負け惜しみだけが理由で『ザ・ラスト・トリック』をこきおろしているわけでもない。次の節からは具体的に、この小説がどのような欠陥を抱えているのかを説明するつもりだ。
だが、その前に「安眠練炭の推理と誤謬」を開示しておくことにしよう。実際に応募した文章の控えをとっておくのを忘れたので、記憶をもとに箇条書きすることにする。

  1. 虹村水樹を殺した犯人は浦駕和白である。
  2. 虹村水樹の死体の傍に遺された平仮名のメッセージ「たしろこだ」は第四の事件の「たしろこ」を受けている。第四の事件のメッセージを知っていたのは、警察関係者を除けばメッセンジャー本人だけなので、このメモはメッセンジャーが遺したものである。
  3. 第一から第四の事件現場に遺された数字のメッセージを繋げると「1,2,3,5」となる。これはフィボナッチ数列である。虹村水樹殺しの現場の「5」は、メッセンジャーが遺したものではなく、第四の事件の数字メッセージを知らず、単純な連番と誤認した人物の手によるものである。
  4. メッセンジャーは虹村水樹であり、彼女は平仮名メッセージを用意して第五の殺人を行おうとしたが、逆に返り討ちにあってしまった。
  5. 虹村水樹が山荘から外に出ることができたのは停電中である。その時にリビングより外にいてアリバイがないのは浦駕和白と笹木真澄の二人しかいない。
  6. メッセンジャーの標的はすべて男性であるため、浦駕和白が犯人である。

以上の推理のうち、当たっていたのは犯人とメッセンジャーの正体、そして「返り討ち」という事件の構図だけで、後はすべて外れている。この推理には飛躍と独断が多いので外れているのは当然だ。たとえば、

  • 第四の事件の現場に遺されていた平仮名メッセージ「たしろこ」は江戸釜乱歩ですら簡単に入手できた情報なのだから、ほかにも知っている人がいたかもしれない。極秘のはずの捜査情報がインターネットを介して流出することはままあるので、このデータを根拠に虹村水樹殺しに本物のメッセンジャーが関与していたと断定することはできない。
  • メッセンジャーが遺した数字がフィボナッチ数列であるという確証はなく、この推測を補強するデータもない。従って、第五の事件で本来遺されるべきだった数字が「8」とは断定できず、「5」はメッセンジャー本人が意図した数字だったかもしれない。
  • 水樹が山荘から外に出ることが可能だったのは停電中に限られるわけではない。たとえば、リビングに江戸釜乱歩しかいない時に外に出て、彼がそのことを黙っていたという可能性もある。
  • 第一から第四までの事件の被害者が全員男性だったからといって、メッセンジャーの標的が男性に限られているということにはならない。被害者の共通項が「推理作家によく似た名前の人物」ということなら、山荘に集まった全員が標的候補になり得る。

要するに、上記の推理は思いつきの域を出ていないということなる。
さらにまずいことに、この推理では、メッセンジャーが遺したメッセージの意味に言及していない。なぜ言及しなかったかといえば、解読できなかったからだ。この弱点は言い訳のしようがないのだけれど、あえて自己弁護を試みるとすれば次のようになるだろう。
メッセンジャーは異常な殺人鬼であり、たととえ彼もくは彼女の行動に何らかの内的合理性があるにしても、それは世間的な常識から大きく逸脱している。そこで、仮にメッセージが解読できたとしても、そのことからメッセンジャーの正体を論理的に言い当てることは原理的に不可能だということになる。たとえばメッセージが「麻闇由汰が殺した」という意味だったとしても、麻闇由汰がメッセンジャーだったということになるわけではないのは当然のことである。メッセージの内容からメッセンジャーを特定できるとすれば、メッセージの内容が、メッセンジャー以外の人間が知らない情報だった場合に限られる。だが、そのような特殊な情報を盛り込むには、メッセージはあまりにも短すぎる。よって、メッセージの内容は推理を組み立てる材料にはならず、ただメッセージの形式的な特徴のみに基づいて推理するべきである……という具合に。
フィボナッチ数列を持ち出したのは苦し紛れの思いつきに過ぎない。ただ、第五の事件の数字メッセージがそれまでの事件のものに繋がっていないということを言いたかっただけだ。メッセージの内容に立ち入らず、メッセンジャーがメッセージにどのような意味を込めたのかという謎は括弧に入れたままにして、メッセージの字面がもつ規則性にのみ着目するという方針に従えば、平仮名と数字という二つの系列のうち前者は過去の事件との連続性を保っているが後者は連続性を保っていない、ということだけが重要となる。というか、この方針によれば、連続性の有無以外の要素は捨象せざるを得なくなる。その結果、事件の構図自体は当たっていたものの、その構図に至った過程は恐ろしく的外れなものになってしまった。
「安眠練炭の推理と誤謬」はまだ続くが、少し長くなったので節を改めることにしよう。

叙述トリックについての二つの仮説

『ザ・ラスト・トリック』は「新本格誕生二〇周年記念企画」と銘打たれている。これはいったい何を意味するのだろうか?
講談社ノベルスのいわゆる「新本格推理」第一弾、綾辻行人の『十角館の殺人』が出版されたのは1987年のことなので、今年でちょうど20周年になるのは事実だが、それだけのことで記念企画だと言ったりはしないだろう。何か「新本格」にちなんだ趣向があるのは間違いがない。
そう考えると、叙述トリックの存在に気づくのは自然だ。いや、むしろ必然ともいえる。もちろん、「新本格」記念だろうが有馬記念だろうが、常に叙述トリックの存在を疑ってかかるのがミステリ読者の責務ではあるのだが。叙述トリックには、人物の属性または人間関係に関わるもの、視点に関わるもの、空間に関わるもの、そして時間に関わるものなどがあり、一通り検討してみる必要がある。たとえば、事件の舞台が関東だとすれば、そこが箱根の関の東であるという通常の解釈のほか、函谷関の東だという可能性も考えておかなくてはならない。
そのような疑いのまなざしで『ザ・ラスト・トリック』を読むと、この作品では時代背景がぼかされていることに容易に気づく。登場人物の全員が実在する推理作家と酷似した名前をもち、中には近年デビューした作家に似た名前の人物もいるが、だからといって事件が発生した年代が2000年代だということにはならない。なぜなら、推理作家の名前との類似について作中で言及されているのは、江戸釜乱歩、鮎樫鉄也、横見路青史の三人だけだからだ。作中で既に島田荘司がデビューしているのは明らかだが、辻村深月のデビュー後かどうかは不明だ。なお、作中では推理作家のほか中島みゆきにも言及されているが、『時代』が発表されたのは島田荘司のデビュー前なので、年代特定の手がかりとはならない。
ところで、島田荘司の名前は次の文脈に出てくる。

 最近の新人作家は、名前も作品もまったくわからないと恐縮する浦駕さん。そこから島田荘司すげーよ、読むのが追いつかねーよ、とか口々に言い合い、栖川さんが、そういえば先月、講談社ノベルスから新人作家のデビュー作が出たんですけど、それがとても面白かったんです、というふうに話がどんどん広がっていった。

島田荘司は今でも現役だが、読むのが追いつかないほど多作しているわけではない。島田荘司がもっとも精力的に作品を発表していたのは1980年代のことだ。そして、島田荘司の推挙を受けて「新本格」第一弾、『十角館の殺人』が世に出たのは1987年9月だ。すると、この小説はその翌月、1987年10月の出来事を扱っているのではないかと考えられる。作中の季節が秋であることは冒頭で示されているので、その記述とも合致する。
だか、これだけではまだ決め手ではない。ほかにないか。

「今日はミステリが大、大、大好きな人たちの集まりなんですもん! 不謹慎全面解禁でいきましょう! そうだ、次の事件がいつになるか、ちょっと推理してみませんか? 最初の事件っていつでしたっけ、もう一年経ってます?」

「まだですね。あの日はたしか祝日で……そうそう、天皇誕生日っす。 俺、そんときちょうど入院してて、ベッドでテレビばっか観てたんすよ。皇室関係の番組が多かったんで、覚えてます」

 今年の四月、推理研に入部して意気揚々としていた俺は、新歓コンパの帰り道、何者かに背後から突き飛ばされて、溝に落ち、右足を骨折した。そしてそこへ、アイツが見舞いに訪れた。

二つの記述を繋ぎ合わせれば、天皇誕生日は4月だと読める。つまり、昭和だ。これだけでは1987年だと断定することはできないが、だいたい昭和の終わり頃を舞台としていると言ってもよさそうだ。
だが、果たして『ザ・ラスト・トリック』の作中年代は昭和末期だと言い切ってしまっていいのだろうか? ここに何か罠が隠されていないだろうか?
そこでさらに検討を続ける。上述のとおり、作中の登場人物の名前はすべて実在の推理作家の名前によく似ているという特徴をもっているが、何人かはそれ以外に別の特徴も共有している。それは珍姓奇名だ。あなたは「江戸釜」なる姓の人を知っているだろうか? 「横見路」は? 子供に「和白」という名前をつける親はいったいこの名前にどのような夢と希望を込めようとしているのか?
中でも奇妙なのは、語り手「麻闇由汰」だ。元ネタの「麻耶雄嵩」もかなり変な名前だが、これは筆名であり比較にならない。麻耶雄嵩の本名はごく普通の名前だ。
「麻闇」などという珍姓はおそらく実在しないだろうが、それはよしとして、問題は「由汰」のほうだ。調べてみると、「汰」は常用漢字ではなく、人名用漢字になったのは1990年だとわかった。つまり、昭和後期には「汰」を含む名をつけることは不可能だったのだ。
そうすると、素直に考えれば、麻闇由汰は1990年以降の生まれということになる。成長してから改名したという可能性もなくはないが、それでも1990年以前には「由汰」と改名することもできなかったのだから、作中年代は昭和ではあり得ない。これはどういうことか?
麻闇由汰は大学一回生だ。関東の大学で「年生」ではなく「回生」というのは不自然だが、これは綾辻行人へのオマージュだと好意的に解釈しておくことにしよう。一回生だろうが一年生だろうが18歳以上だということに違いはない。
麻闇由汰が1990年以降の生まれで、18歳以上だとすれば、作中年代は2008年以降だということになる。未来のことは誰にもわからないが、希望をもつのは自由だ。20年前にそうであったように、島田荘司が意欲作を矢継ぎ早に発表し、講談社ノベルスから出た新人のデビュー作をミステリファンが愛読するような事態が近い将来に再来することを作者が祈念したからといって、ったい誰がそれを責められようか?
では天皇誕生日はどうか。これは簡単だ。麻闇由汰は前年12月にも入院していたのだ。メッセンジャーの第一の殺人が行われたのが新歓コンパのあとだとはどこにも書かれていない。
この「『ザ・ラスト・トリック』作中年代近未来仮説」には見たところ特に矛盾はないようだ。そればかりか、この仮説を補強するデータが小説の冒頭にある。

 運転席のリクライニングにもたれながら、カーラジオから流れる悠長なポップソングに耳を傾ける。車の外では笹木先輩が、いつもの調子でノホホンと喋っている。

「ハイ? えっと、ああ、見えました見えました! 手を振ってるの見えます! 赤い三角屋根のおうちですね? 今、シェーしてますよね。シェー! あ、違います手が逆さです。左手が上」

 秋の陽は、とっくの昔に西の空へと沈んでいた。笹木先輩の台詞に、俺は心の底から安堵する。こんなに奥深い、民家どころか対向車も見かけない山の中で車中泊なんて……あ、いやいや、笹木先輩と一緒なら、むしろ大歓迎じゃんか。しまった、失敗した!

笹木真澄と江戸釜乱歩が電話で会話をしている。笹木真澄が用いている電話は何か? 自動車電話ではまない。なぜなら彼女は車の外に出ているのだから。公衆電話? それも考えにくい。民家もない山の中に公衆電話などあるはずもない。言うまでもなく携帯電話に違いない。そして、江戸釜乱歩もまた携帯電話を用いているのだろう。玄関脇の電話を屋外に持ち出してシェーのポーズを取りながら会話するなどという曲芸じみた芸当をするとは考えにくい。
日本で携帯電話が発売されたのは「新本格」誕生と同じ1987年のこと。だが、一般に普及するのは1990年代半ば以降のことだ。昭和末期の携帯電話はバブル成金のステータスシンボルであり、一介の編集者や女子大生の手に届くものではなかった。また、今でも山間部では電波の届かないところが多いのだから、当時、山奥の山荘付近で使用可能だったとは思えない。
二つの仮説を単純に見比べてみると、近未来仮説のほうに軍配を上げてみたい。だが、それが真相かどうかはわからない。あり得なかったはずの「由汰」は作者のミスであり、冒頭の会話はその場にありそうもない公衆電話と、不自然かつ曲芸じみた使用方法による固定電話によってなされたもので、時代背景はやはり1987年だったという可能性は、どうやっても論理的にはは排除できないからだ。
ところで昭和末期仮説と近未来仮説は、推理にどのような影響を及ぼすのだろうか? 少なくとも次の三点が考えられる。

  1. 昭和末期仮説をとれば、犯人が携帯電話で虹村水樹を屋外に呼び出したとか、彼女が犯人に携帯電話で停電を指示したなどという可能性は排除できる。しかし、近未来仮説をとった場合、作中で特に明示されていなくても大学生が携帯電話を持っているのは自然なことなので、これらの可能性をいちいち検討しなければならない。
  2. 昭和末期仮説をとれば、インターネットによる捜査情報の漏洩は考慮する必要がない。従って、メッセンジャーの第四の犯行に関する情報は、メッセンジャー本人および江戸釜乱歩以外には知り得なったものとみなして差し支えない。しかし、近未来仮説をとった場合には、このような限定が難しくなる。
  3. 昭和末期仮説をとれば、推理作家の名前と酷似した人物がメッセンジャーの標的になっているという推理は成り立たない。しかし、近未来仮説をとった場合、逆にこの共通項を単なる偶然として無視することはできない。

こうやって列挙してみると、単純比較の場合とは逆に、昭和末期仮説のほうに分があるように思えてくる。なぜなら、近未来仮説をとった場合、考慮に入れるべき要因があまりにも多くなり、おそらく余詰めが多発するだろうからだ。作者は余詰めを極力回避するだろう、というのがこの推測の根拠だ。しかし、この根拠は非常に薄弱なものに過ぎない。
ここに犯人当て小説の難しさがある。読者は伏線を適切に読み解いて作者の罠を見抜かねばならず、また、作者のミスや手落ちは適切に無視する必要もある。しかし、伏線と欠陥を適切に見分ける方法はどこにもない。読者にできることは、作者がミスをしていないことを祈ること、そして、ミスが判明したときには厳しく非難することだけだ。
次節では、解決篇で明らかになった欠陥の数々について、思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てて、口汚く非難することにしよう。

ミステリという異形のもの

……と思って、効果的な悪口の語彙収集に励んでいたところ、作者のひとり小田牧央氏が既にMYSCON8犯人当て企画「ザ・ラスト・トリック」始末書という文書を既に発表していることを知った。さらに、『ザ・ラスト・トリック』のプロトタイプ版と称する『しらゆきひめ』なる小説も発表されている。ん、これってMYSCONの後で書き直しているのでは?
先回りされてしまったので、振り上げた拳の下ろしどころがなくなってしまった。方向転換して、『ザ・ラスト・トリック』の時代精神の欠如に目を向け、「これは精神のない抜け殻だ!」と非難してみようかとも思ったが、なんとなく馬鹿馬鹿しいのでやめておこう。馬鹿馬鹿しいといえば、ミステリのあら探し自体が馬鹿馬鹿しいことなのだが、世の中にはたまにはやってみようという気になる馬鹿馬鹿しいことと、できれば遠慮したい馬鹿馬鹿しいことの二種類がある。
とりあえず、「始末書」で触れられていない点について軽く指摘しておこう。
解決篇の最後のほうで

 そういえばメッセンジャー事件で最初の被害者が出たとき、俺は病院のベッドで寝てたんだよな。新歓コンパの帰り道に、水樹に背後から突き飛ばされたんだ。入院中にちょうど天皇誕生日があったけど、あのときは元号が昭和で、天皇誕生日は四月二九日だった。今の元号は平成で、天皇誕生日は一二月二三日。十二月に新歓コンパをやるような酔狂な大学が存在しないとは言い切れないけれど、少なくともうちの大学は違った。だからあれは、間違いなく二〇年前の出来事だったわけだ。

と書いてあるが、麻闇由汰が入院するきっかけとなった新歓コンパが4月だったことは問題篇に明記されているのだから、仮に前年度の12月に新歓コンパを催していたとしても無関係だ。よって、「酔狂な大学」云々は無用の言い訳に過ぎない。
これはまあ、たいしたことではない。
次はもう少したいしたことかもしれないが、でもやっぱりあまりたいしたことではないかもしれないことを書いてみよう。
既に述べたように、メッセンジャーが意図したメッセージが「麻闇由汰が殺した」だということから麻闇由汰がメッセンジャーだと結論づけることはできない。麻闇由汰のことを知っている人間であれば、誰であってもこのメッセージを遺すことは可能だったのだから。虹村水樹はその条件を満たす一人ではあるが、唯一の人物ではない。江戸釜乱歩でも笹木真澄でも宇多田彰吾でも可能だったろう。よって、このメッセージのみから虹村水樹がメッセンジャーだと結論づけることもできない。実際、虹村水樹がメッセンジャーだったのではないかという疑いは、彼女のふだんの行動や現場付近の状況証拠などによって補強されていくわけだ。
それは許容範囲だとしよう。問題はメッセージ解読作業そのもののうちにある。
解決篇で行われているメッセージの解読は、次のプロセスを経ている。

  1. 平仮名メッセージ「たしころだ」から「たしろこ」を抽出する。
  2. 「たしろこ」を逆に読んで「ころした」、すなわち「殺した」の意味だと解する。
  3. 平仮名メッセージは、より長いメッセージの一部であり、メッセージ全体の後半部分であるという仮説を立てる。
  4. メッセージ全体の残りの部分、すなわち前半部分は数字メッセージにより補完できるという仮説を立てる。
  5. 数字メッセージを被害者の名前と対応づけて「たゆみやみ」という文字列を得て、さらにそれを逆に読んで「みやみゆた」と変形する。
  6. 数字メッセージから得られた文字列と、逆読みした平仮名メッセージを結合して「みやみゆただころした」とする。
  7. 「みやみゆただころした」では意味が通らないので、このメッセージが不完全なものだとみなし、補正のうえ「まやみゆたがころした」すなわち「麻闇由汰が殺した」と解する。

この過程ではいくつもの仮定が置かれているが、最終的に「麻闇由汰が殺した」というメッセージが得られたということ以外に仮定を支持するものはない。このメッセージには他の解読方法はないだろうか? そう、たとえば、こんなのはどうだろう。メッセンジャーの標的は全部で13人、最後の一人を殺したところで、平仮名メッセージは「たしころだけにはいかないよ」、つまり「田代湖だけには行かないよ」という拒否の意思表示として完結する。数字メッセージのほうは、被害者の美醜を五段階評価したものだった、とか。麻闇由汰の推理は、連続殺人の被害者が5人でおしまいだという前提に立っているが、そのような保証は別に与えられていない。
もう一つ指摘するなら、「みやみゆた」が不完全なメッセージであり、「まやみゆた」が正しいという推理にも飛躍がある。なるほど現実には「みやみゆた」などという人物はいないだろう。しかし、『ザ・ラスト・トリック』の世界にはいるかもしれない。珍姓奇名揃いの登場人物たちは、「みやみゆた」という奇妙な人名はありそうもないとして退けることはできないし、有名な推理作家と一字違いの名をもつ人々がいることを知っている彼らは無名の麻闇由汰と一字違いの人がいるという偶然を一笑に付すこともできない。
メッセージの解読過程が恣意的であり論理的飛躍が多いということは言わずもがなだが、今説明したように、この解読過程には心理的飛躍も多い。登場人物の中でこのような推理ができるのは浦駕和白だけだろう。『しらゆきひめ』でメッセージ解読の主導権を彼に与えているのは賢明だといえる。
余談だが、「たしろこだ」を逆読みするという発想には心理的飛躍は全くない。ミステリファンなら、「たしろ」を含む文字列を見れば当然逆読みするものだから。
以上で、罵詈雑言代わりの軽い指摘を終えて、そろそろまとめに入ることにしよう。
今回の記事の総見出しは迷いに迷ったあげく「ミステリという異形のもの」にした。『ザ・ラスト・トリック』というひとつのウェブ小説の感想文にしては大げさな見出しなのだが、個別作品の検討を通じてミステリ一般について語ろうとしたためだ。当然のことながら、そのような無茶なことは全く不可能であって、ミステリ一般について語ることはできなかった。でもまあ、ミステリというのは異形のものなんだから、仕方がない。そう開き直っておくことにしよう。
『ザ・ラスト・トリック』には二人の作者と数人の査読者がいて、十数人の挑戦者がいた。挑戦者の中の数人は攻撃者でもあった。また、現段階で数十人の読者がいることだろう。関わり方は人それぞれだが、誰もがミステリという異形のものに吸い寄せられて、一種独特の体験をしている。そこには正気もなく狂気もなく、連帯もなく孤独もなく、希望もなく絶望もなく、普遍でもなく特殊でもなく、美徳もなく悪徳もなく、有益でもなく無益でもなく、有害でもなく無害でもなく、豊穣でもなく荒涼でもなく、何とも形容のしがたい異形のものがある。
別に『ザ・ラスト・トリック』が特別なミステリだというわけではない。失礼ながら、むしろ凡庸な部類に入る。だが、たかがミステリ、平凡な推理小説であっても、怪作奇作そろいの他ジャンルの諸作では決して味わえないような体験をすることができる。この小文からミステリという異形のものの一端を感じ取ってもらえれば幸いだ。
でも、そんなの無理だよなぁ。