そう思う人もいる、そう思わない人もいる

確かに、気にする親も多いかもしれないですね。「孟母三遷の教え」なんてのもありますしね。そういう上流階級チックな教育方針には、個人的には賛同できないですが、人それぞれでしょうし。

勤め人が家路につく際に、風俗街を通るのが我慢ならない、というのは、僕の感覚からするとちょっと潔癖すぎるかなと思うし、一方で便利になったと考える独身サラリーマンもいるだろうなあとは思います。

孟母三遷の教え」が上流階級チックなのは、住環境が子供の教育に悪いと思えば躊躇なく引っ越しできるという経済力を前提としているからではないか。そういう人なら、既存の街がピンク街化しても何とも思わないだろう。そんな街はさっさと見捨てて、より「環境のよい」郊外へと移住すればいいのだから。そうやって、選ばれた富裕層だけが住む高級住宅街が出現することになる。その行き着く先は要塞町だ。そんなグロテスクなところには住みたくないと思うが、人それぞれだろうから仕方がない。
一方、The best is yet to be. - ただ消費者のためでなくでイメージされているピンク街化を嫌悪する人々とは、そのような富裕層ではなくて、むしろ庶民*1ではないだろうか。庶民は資金力に物を言わせて郊外に豪邸を構えることもできず、かといってリュックサックを担いで流浪の旅に出ることを潔しとしない。自分が生まれ育った街で、あるいはローンを組んで買った家で、平穏無事に日々を暮らしたいと望む人々だ。そのような庶民にとって、慣れ親しんだ街がピンク街化することは、耐え難いほどの苦痛をもたらすことになる。
問題は、庶民が感じるピンク街への嫌悪と、ピンク街の利便性を享受する独身男性*2が感じる便利さを、どちらも「そう思う人もいる、そう思わない人もいる」という観点から相対化することの妥当性だ。

  1. 仮に近所にピンク街のない良好な環境*3で生活する権利というものがあって、近所にピンク街のある便利な環境で生活する権利というものもあるのだとすれば、権利と権利が衝突しているだけだということになるだろう。権利と権利の衝突をどう調整すればいいのかというのは厄介な問題ではあるが、この場合には「そう思う人もいる、そう思わない人もいる」という相対化には問題はない*4
  2. 逆に、単に近所にピンク街がないことから反射的に良好な環境に恵まれ、単に近所にピンク街があることから反射的に利便性を享受できるということに過ぎないのだとすれば、その場合には反射的利益と反射的利益が衝突していることになる。この場合も相対化可能だ。
  3. では、ピンク街のない良好な環境で生活することは権利であるが、ピンク街のある便利な街で生活することは反射的利益に過ぎないとすればどうか。この場合、レベルの異なる事柄を比較対照して「そう思う人もいる、そう思わない人もいる」という相対化を行うのは妥当ではないことになるだろう。
  4. 最後にいちおう、ピンク街のない良好な環境で生活することは反射的利益に過ぎないが、ピンク街のある便利な街で生活することは権利であるという組み合わせも挙げておこう。この場合でも当然相対化は妥当ではない。

ここまでは理論的可能性の羅列だが、ここから先はイデオロギー混じりの話になってくる。
私見では、少なくとも近所にピンク街がある便利な環境で生活する権利などというものは全く認められない。従って、1と4は消去することになる。では、近所にピンク街のある便利な環境で生活する権利のほうはどうか。こちらはある程度認められると思う。つまり、2を消去して3をとるということになる。なお、「ある程度」と限定したのは、この権利*5生存権のような絶対不可侵の権利ではないと考えるからだ。事情によっては制限されてもやむを得ないこともある。ただし、独身男性の利便性確保というのは、環境権を制限する理由にはあたらない。
以上の考察が正しければ*6、この問題について、庶民と独身男性の利害を天秤にかけるような論法は不当だということになる。
では、このことから、商店街のピンク街化は阻止すべきである、という結論に至るのだろうか?
そうはならない。なぜなら、環境権は絶対不可侵のものではないからだ。
庶民の環境権を制限することになるかもしれない事情、それは風俗業者の営業権だ。これは無視するわけにはいかない。
では、どうやって環境権と営業権の衝突を調整すればいいのだろうか。うまい知恵はないのだが、既得権の考えはわりと有望だと思う。簡単にいえば、先に庶民が生活している場には後から風俗業者がずかずかと踏み込んできてはならないし、先にピンク街が形成されているところに住居を構えて風俗業排除運動を起こしてはならないという考え方だ。実際には、これほど簡単ではないだろうが。

いずれにせよ先住者の既得権的な主張ではあるわけで、俺にはそこが引っかかるんですね。

「既得権」という言葉は最近ネガティヴな意味合いで使われることが多いので、引っかかりをおぼえるのもわからないでもないが、いつでも既得権の考え方がいけないというわけではないだろう。もし既得権の考えを全否定してしまえば、昨日所有していた財を今日も所有し続ける権利すら認められないことになるだろう。
で、結論としては、既存の商店街がピンク街化することは、そこに住む庶民が反対する限りは認められないということになる。その結果、悪所がないために人の心がゆがんでしまっても仕方がない……と、いちおう書いてはみたが、もし悪所がなければ人の心がゆがむのだとすれば、ピンク街化する前の商店街の人々の心は最初からゆがんでいるのだから、それ以上のゆがみを心配することもないだろう。
非常に単純な議論なので抜け落ちた論点も多いが、今回はこれまでとしたい。

追記

早速、抜け落ちた論点をひとつ発見した。

最近始めた学習教室の周囲がそうなったら。。。もう廃業です。

「既得権の行使」とかそんな立派なことではなく、生活の場が脅かされるのよ。

そんな風に、一地方在住の子持ち失業者予備軍は思っているのであった。

商店街のピンク街化によって、実質的に仕事ができなくなるというケース。ただし、形式的には学習教室を経営する権利が侵害されるわけではない。上では、権利/反射的利益という単純な二分法で話をしてきたが、議論の枠組み自体を見直さなければならない気がしてきた。

*1:「庶民」という言葉に「弱者のふりをして数の暴力を振りかざす人々」というニュアンスを感じ取る人もいるだろうから、もうちょっと価値中立的な言葉はないものか探してみたのだが、「常民」とか「大衆」とかいう類似表現しか思いつかなかった。仕方がないので、以下の文章では「庶民」で押し通すことにする。

*2:別に独身である必要はないが、引用文中の例にあわせた。

*3:「良好な」という表現はもちろんプラスの価値を含むものであるため、ここで論点先取の過ちを犯しているのではないかと考える人もいるかもしれないが、それは誤解だ。ここでいう「良好な環境」とは誰にとっても良好な環境ということではなく、単にその環境を良好だと思う人にとって良好だということに過ぎない。

*4:だが、そうやって相対化しても水掛け論を招くのがせいぜいで、あまり得るものはないように思う。

*5:以下、簡単に「環境権」と呼ぶことにする。なお、「環境権」という言葉にはさまざまな含みがあるが、この文章ではピンク街の有無以外は考慮しない。

*6:もちろん、正しいという信念をもって主張しているわけだが、いかなる信念も「そう思う人もいる、そう思わない人もいる」攻撃から原理的に免れているわけではない。