異世界の文字

いま出ている『電撃「マ)王*111月号』から『狼と香辛料』の連載が始まった。このマンガの扉をみると「キャラクターデザイン:文倉十 作画:小梅けいと」と表示されているが、肝腎の原作者の名前がクレジットされていない。どうやら担当編集者の指定ミスのようだが、なんだか『狼と香辛料』の今後を暗示しているかのようでもある。
それはともかく、この号の巻頭ではちゃんと名前入りで原作者のインタビューが掲載されているが、そこで「アニメ、コミックには、先生ご自身が関わった部分はありますか?」という質問に対して次のように回答しているのが興味深い*2

基本的に小道具や細かいところのチェックが主です。たとえばですが、うっかり『狼と香辛料』の世界では使われていないアルファベットが混じったりしないようにとか、そういったレベルです。(後略)

ここで『狼と香辛料』の原作者が「アルファベット」をどのような意味で用いているのか*3がはっきりとしていないことと、「『狼と香辛料』の世界では使われていないアルファベット」というフレーズが構文的に多義的であることから、『狼と香辛料』の世界の文字について、いくつかの解釈が可能となる。

  1. 狼と香辛料』の世界ではアルファベット(=ローマ字)は使われていない。
  2. 狼と香辛料』の世界では(ローマ字かそれ以外の文字かはともかく)使われていないアルファベットがある。
  3. 狼と香辛料』の世界ではアルファベットという種類に属する諸文字は使われていない。

どの解釈が妥当なのかを論理的に決定することはできない*4が、『電撃hp VOLUME49』に掲載された『狼と香辛料』の作者*5のインタビュー記事を参考にすると、『狼と香辛料』の世界で用いられている文字はアルファベットだと考えられる。なぜなら『狼と香辛料』は基本的に中世ドイツの社会制度や文化風俗をモデルにした世界設定になっているため、文字の種類もやはり中世ドイツで実際に用いられていたものに類似していると考えるのが自然だからだ。だが、『狼と香辛料』は架空の世界の物語なので、そこで用いられている文字は現実世界に存在するいかなるアルファベットとも同じではない*6。よって、上の解釈のうち、1と2は支持するが3は退けることになる。
さて、異世界で用いられている文字がどのようなものであるのかということは、その文字自体が話題になるのでない限り、小説ではあまり問題にはならない。いずれにせよ小説は実在する文字で書かれるのだから。異世界ファンタジーが日本語の漢字仮名交じり文で書かれているからといって誰も異議を唱える者はいない*7。小説家は好きなように日本語で異世界を記述することができる。
だが、マンガやアニメなど、視覚的媒体になると問題は一気に表面化する。登場人物が本や手紙を読んでいるシーンがあれば、そこで読まれている本や手紙を描かざるをえない。何が書かれているのかがはっきりとわからないようにぼかして使用文字の問題をごまかすという手法はあるが、あまり多用すると白けてしまう。また、街角にある大きな看板はどうするか?
やはり、多少手間がかかっても架空の文字を作ってしまうのがいちばんだろう。物語に架空の動物が登場するなら、変にぼかさずに架空の動物の外見を創作するのだし、架空の乗り物が出てくるなら、そのデザインを考えるのだから、文字の場合だけ別扱いにするほうがいいということにはならないはずだ。中世ヨーロッパ風の異世界なら、ひげ文字を適当にアレンジすればそれらしく見えるだろう。中華風ファンタジーなら、契丹文字女真文字が参考になる。
…んと、そこまで考えたときに「じゃあ、話し言葉はどうすればいいんだろう?」ということが気になった。これはマンガの場合には問題にならないが、アニメの場合には問題になりそうだ。いや、「異世界の言葉そのままだと理解できないから、日本語に吹き替えしているのだ」と開き直ってしまえばいいのか。では、音楽は? 背景音楽は現実のものでいいけれど、作中人物が演奏する音楽は現実そのままの音楽理論に基づく音楽だと具合が悪いのではないだろうか……。
だんだん思考が極端な方向へと進んでいきそうになってきたので、今回はこれでおしまい。

追記

はてなブックマークで紹介されていたので、架空言語公開講座にリンクしておく。面白そうなのであとでじっくり読むことにしよう。

*1:本来の表記では「電撃」と「王」の間に入る文字は非常に独特なもので、「まだれ+丸囲み(または七角形の囲み)のマ」というものだ。これはおそらく「まだれ+マ」(「魔」の略字)を捩ったものだろうと思う。ここでは電撃「マ)王 OFFICIAL WEBSITEの表記を採用した。

*2:もうひとつ、最近読んで印象に残っているマンガとして『ムーたち』『へうげもの』『国民クイズ』を挙げているのも興味深いが、今回の話題とは関係がないので、この件には触れないことにする。

*3:日本では単に「アルファベット」といえばローマ字を指すことが多いが、ギリシア文字やルーン文字などもアルファベットの一種である。なお、日本では単に「ローマ字」といえば日本語のローマ字表記のことを指すことが多いので、話がさらにややこしくなる。

*4:ただし、これらの解釈は互いに排他的なのではなく、3が成り立てば1と2も成り立つし、1が成り立てば2も成り立つということは論理的にいえる。

*5:こっちは小説雑誌なので「原作者」ではなく「作者」と表記することにした。もちろん同一人物だ。

*6:もちろん、アルファベット以外の実在する文字とも同じではないはずだ。

*7:異世界ファンタジーにおける外来語使用の問題というものはあるが、それは今の話題と密接に関連はしているものの厳密にいえばレベルの違う問題だ。