この本にはもう巡り会えないかもしれないから、いつ読めるかわからないけど買っておこう

本好きの人はたいてい積み人だ。積みを恥じる感覚を失ってしまった人もいる。そこまでいくと、もう人間としていかがなものかと思うのだが、積みを悔いつつも改めることができないのが本読みの業であり、これはある程度やむを得ないと考えている。
ところが、世の中には不思議な人がいるもので、この人にはほとんど積みがないという。「だって、読めるあてがない本は買いませんから(大意)」と平然という。いやそれは違うだろうだって書店で本を見かけて明らかに今のスケジュールだと読めないのはわかっているけれどそれでもここでこの本を見逃したら次に書店に来たときには売れてしまったあとでいや売れたのなら追加が入るかもしれないが売れないから返品されてしまったあとということもあるわけでそうするともう書店では入手できず版元に問い合わせてみたらああその本ですかもう品切れですねえっ増刷?もちろんそんなの未定ですっていうか断裁した本を増刷するわけないじゃないですかあははははっという返事だったりしていや別に実際に出版社にそんなこと尋ねた経験があるわけじゃないけれどきっとそんな感じの応対をされるんじゃないかなーっと思うわけでまあそれはともかく一度逃した本にはもう会えないかもしれないのが本の世界の非情な掟なんだからとりあえず確保しておくのが本読みの道ってもんでしょうが。「でも、本当に読むに値する名作なら、そのうちどこかから復刊されますから(要旨)」いやいやそんなことはなくて名作の誉れ高い作品でも全然復刊されなかった例があるわけでたとえば――
そこで例に挙げたのが大阪圭吉だ。1936年に刊行された『死の快走船』に代表作が収録されているのだが、戦後はいくつかのアンソロジーにいくつかの作品か採られているだけで、まとまった形で彼の作品を読むことができるようになったのは1992年の『とむらい機関車(探偵クラブ)*1刊行後だ。その間なんと56年。『死の快走船』を書店で見かけたときに「うーん、今はほかに読む本があるから次の機会でいいや」と思って買い逃した人は死ぬまで後悔したことだろう!
ちなみに、『死の快走船』は西尾維新の『サイコロジカル〈下〉曳かれ者の小唄』にも登場する。前年に創元推理文庫から大阪圭吉の作品集が2冊出ていて大阪圭吉の主要作品が簡単に読めるようになっていたので、作中での扱いは単に「古書価が高い本」という程度なのだが、以前の状況を知っている人にとって『サイコロジカル』のこの場面は「牧師のたのしみ」*2にも似たインパクトがある。
閑話休題
大阪圭吉の例は極端かもしれないが、似たような話はミステリやSFの世界にはいくらでもある。その他のジャンルのことはよく知らないが、消費スピードが猛烈に速いライトノベルのほうがもしかしたら事態はより深刻かもしれない。そういえば、「すぐ読まない本は買わない/名作なら復刊される」発言に対して『悪魔の国からこっちに丁稚』*3を引き合いに出してツッコミを入れるという悪魔をも恐れぬ強者がいた。大久保町シリーズは早川から復刊したけれど、こっちはさすがに難しそうだ。
というわけで、今日の結論。
面白そうな本を見かけたら、いいから、買え! 読むかどうかは後から考えればすむ話だ。

*1:これもすぐに品切れになった。危ないところだった。

*2:キス・キス (異色作家短編集)』に収録されている。

*3:』『』2巻本。この本はほんとにあっという間に消えた。刊行月の2ヶ月後にさがしたら大阪の大きな書店でも見つからなかった。なお、未読なので面白いかどうかは知りません。