現実とは何か?

私見では「現実とは何か?」という問いは無意味だ。この問いが無意味だというのは、問うことに意味がないということではなくて、問いが意味を持たないということだ。
正しい問いは、こうだ。「現実にそうであるということは、どうあることか?」こう問うことに意味があるかどうかは知らないが、この問いには意味がある。
この問いの答えは簡単だ。「現実にそうであるということは、そうであることだ」以上。補足すれば、「そうであるということは、現実にそうであるということだ」ということもできることが多い。
現実にいま目の前に電話がある。従って、いま目の前に電話がある。
いま目の前には電話がある。従って、現実にいま目の前に電話がある。
現実にいま目の前に電話がある。ここで、いま目の前に電話があるということのほかに、何らかの現実が別にあって、そのふたつがあわさって、現実にいま目の前に電話があるということになるのではない。現実にいま目の前に電話があるというのは、端的に、いま目の前に電話があるということでしかない。
何らかの現実が別にあるということがないのだから、何らかの現実が別にあるというという前提で、それが何かを問うのは無意味だ。よって、「現実とは何か?」という問いは無意味だ、というわけだ。
さて、先ほど、、「そうであるということは、現実にそうであるということだ」ということもできることが多い、と言ったが、いつでもそう言えるとは言わなかった。なぜか? そうであるのに現実にそうであるとは言い難いことが少しはあるからだ。
41は偶数だ。しかし、現実に41は偶数だろうか?
よくわからない。今は保留にしておこう。

追記

えっと、タルスキのことはあまり考えていませんでした。どちらかといえば、ラムジーの余剰説を意識していたような気がします。