おタケさんとスキヤキ

勉強部屋として借りている古アパートに向かう途中に商店街に立ち寄ると、アパートの隣人であるおタケさんが買い物籠を両手で持って歩いていた。籠の中には長葱や白菜が入っている。おタケさんは独り暮らしなのにあれほど沢山買い込んでどうしようというのかと思っていると、私の視線に気づいたおタケさんは「今晩は一年ぶりに息子がウチに来るんでウデ奮って御馳走作るのサ」と言った。訳あって生まれてすぐに引き離された彼女の一人息子に年に一度だけ会わせて貰える約束になっているそうで、今日がまさにその日だということだった。おタケさんは重い買い物籠を持ちながらも足取り軽く西日さすアパートへと帰っていった。
所用を済ませて私がアパートのに入るのとほぼ同時に玄関脇の赤電話が鳴った。受話器をとると無機質な男性の声で「二〇五号室の武田しじまさんの呼び出しをお願いします」と言われた。「武田しじま」という名前がおタケさんのことだと気づくのに数秒かかった。アパートの住人は誰もおタケさんを本名で呼ばなかったからだ。受話器を電話台に置いて二〇五号室のドアをノックすると、割烹着を着て腕まくりしたおタケさんが出てきた。部屋の中からスキヤキのいい匂いがする。おタケさんは電話を待ちかねていたようで、小走りで電話機へと向かった。立ち聞きするのも悪いので、私はすぐに二〇三号室に入った。
しばらく書き物をしていると、隣の部屋から「学士さん」と呼ばわる控え目な声が聞こえてきた。おタケさんだ。「はい」と返事をすると「こちらに来てスキヤキ食べんかネ」と言われた。その申し出もさることながら声の覇気のなさに驚いた。だが断る理由もない。自室を出ておタケさんの部屋へと向かう。
二〇五号室に入るとおタケさんがひとりぽつねんと食卓の前に座っていた。ほんの十数分前に見たのと同じ割烹着姿だが、まるで別人のような雰囲気だった。どうしたのかと尋ねると、それまで俯いていたおタケさんが顔をあげて「今年は息子に会わせて貰えなんだのサ」と呟くように言った。おタケさんの両眼は赤く、目尻には涙の跡がはっきりと見て取れた。その顔つきを見ると、二十ほどよけいに老け込んでいるようだった。
おタケさんは多くを語らず、私も根掘り葉掘り訊けなかった。おタケさんが腹をいためて生んだ息子と一緒に食べる予定だった手料理を赤の他人の私が口にするのは申し訳ないと思ったが、黙っていても息が詰まるので、スキヤキを食らい、太巻き寿司を食らい、芋の煮っ転がしやら蓮根のキンピラやらを食らい続けた。私は酒がほとんど飲めないので控えたが、おタケさんは一升瓶がほとんど空になるまで酒を飲んだ。「おタケさんおタケさん、トシもトシなんだから少しは控えたらどうですか」と私は諫めたが「学士さんには関係ないサ」と言ってコップ酒をあおるのだった。
寂しい夕食が終わると「学士さん、オレに付き合ってくれたありがとナ」とおタケさんは礼を言い、私はますます申し訳ない気分になった。満腹して眠くなり、勉強部屋に戻って作業をする気がなくなったので「ではこれで」と挨拶してアパートを出ると、おタケさんも続いて出てきた。「酔い覚ましの散歩サ」と言い、おタケさんは裏路地へと入っていった。私はそのまま大通りへと出て自宅に帰った。
次の日、おタケさんの遺体がアパートの脇の水路で発見されたという知らせを聞き、私は慌ててアパートへ走ったが、既に遺体は運び去られた後だった。酔って足を滑らせて水路に落ち溺死したらしい。事件性はないとのことだった。昨夜の話を持ち出せば自殺の線も出てくるかもしれないが、事故で決着した件を蒸し返す必要もなかろうと思い私は黙っておいた。むろん、殺人の可能性があるのなら話は別だが。
おタケさんの遺体は離れて住んでいた家族が引き取り、ひっそりと葬られた。私はおタケさんの葬儀には参列しなかったが、生前最後の姿を見た身として一度くらいは墓参りをしておこうと思っていたところ、昨日たまたまおタケさんの菩提寺の近くに用があったので立ち寄ることにした。寺の境内の墓地に立ち並ぶ石柱の中でいちばん新しいものがおタケさんの墓だった。おタケさんが好きだった紫陽花を供えて手を合わせて目を閉じると、息子の来訪を心待ちにしているおタケさんの姿が目に浮かぶようだった。だが、目を開けるとそこにおタケさんの姿はなく、墓石に刻まれた文字が彼女の永遠の不在を告げている。
「武田しじま 享年十七」