産地偽装と物語

私などは田舎者なので、昨今の食品のトレーサビリティ云々についてはなんとなく笑えてしまうところがある。食品に安全神話が「あった」ことの方が奇妙な感じがするのだ。産地表示も「わたしが作りました!」という顔写真入りパッケージも、何を基準に「安心」と感じられるのか、いまだに感覚的にはよくわからない。

ちっちゃい頃は、米や野菜は自給自足、魚は知ってるおばちゃんから直接買う、という出所のわかりやすい環境だったので、祖父母が亡くなってからスーパーで食材や惣菜を買い始めたら、とても妙な気がしたものだ。誰が作ったのか、何が入ってるのかわからない食べ物ばかりだから。「店で売ってある」時点で全部、自分の中では留保付きなのだ。

文脈を無視して明後日の方向へと向かう。
子供の頃、まだインターネットなどというものはなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、少なくとも近所の店では売っていなかった。テレビはあったが見せてくれなかった。見ていいのは「水戸黄門」だけだった。近所の店はただの雑貨屋だったので、本も雑誌も買えなかった。もちろん、映画館もパノラマ館もなかった。
そんなわけで、メディアを通じて提供される物語に接する機会がほとんどなく、祖父母や近所の人々が語ってくれる昔話や伝説、そして年に一度のお祭りのときに部落*1の人たちが総出で演じる芝居がある程度だった。
それらの物語には特定の作者はもとからいないし、語ったり演じたりしているのは自分の目の前にいるよく見知った人だから、いずれの意味でも「産地偽装」などという事態は考えられなかった。そういう環境で育ってきたので、メディアを通じてアクセスする物語の「産地」には概して懐疑的だ。記憶に残っている限りでは、所用でまちに出た親にせがんで買ってきて貰った初めてのマンガを読んだとき、その作者が「二人で一人」だということに疑いを抱いたのが歌会始、もとい、疑いはじめだ。。その後しばらくしてそのマンガ家コンビは解散した。また、二人で活動していることを名前の上でもアピールしている推理作家の小説を読んだとき*2も同様に疑問に思った。このコンビもその後解散し、その後片割れが書いた本を読むと実質的「一人で二人」だったことがわかった。
未だに、子供の頃の感覚が残っていて、メディア経由の物語の作者などは全く信用できない。たとえば、今、机の上には読みかけの『探偵綺譚』があるのだけれど、そのカバー見返しのところの著者近影を見ても、本当にこんな姿の人がこのマンガを描いているのかと首を捻る。世間の人々はメディアに馴致されすぎなのではないか。また、昨月、とある出版社主催のイベントに行ったとき有名ライトノベルシリーズの作者と絵師のサイン会会場を覗いてみたのだが、絵師はともかく作者のほうは偽物に違いないと確信した。だって、ケモノ耳がついていなかったのだから。さらに遡ると、今年の夏コミでは、唐沢俊一の写真によく似た人が売り子をやっているのを見かけたが、あれもきっとそっくりさんを連れてきて店番をさせていたのだろう。さらにさらに……ええと、もうこの辺でいいですか?
この記事水木しげるの件を読んで思いついたことも書こうと思っていたのだが、時間切れ。

*1:今では「部落」という言葉はほぼ被差別部落とイコールだと思われているが、当時はそうではなかった。運動会に「部落対抗リレー」などという競技があったほどだ。今でも田舎のほうに行けばたまに昔ながらの用法の「部落」を見聞きすることがある。

*2:その頃は高校生になっていたので、自力でまちの本屋に行って買った。