新年読み初め

本当の読み初めは『ささめきこと(1) 』だが、これは人から借りて読んですぐ返したので今手許に本がないから読み返して感想を書くことができない。面白いマンガだったので自分で買ってもいいかなという気もするのだが、2巻で失速するようだと馬鹿らしいので、しばらく様子見。
さて、『昭和を騒がせた漢字たち』の話。
名著『人名用漢字の戦後史』の著者があの吉川弘文館から出した本なのだから面白くないわけがない、と期待しつつ読んだのだが、事前の予想をはるかに上回る面白さだった。
福井県庁の掲示板に「福県」と書いてあるのを見た人が「フクドンブリケンとはけしからぬ!」と怒った話とか、郵政省がもうちょっとで逓信省に戻りかけた話とか、漢字にまつわる小ネタ集としても楽しめるが、この本の真価は面白そうなエピソードを拾い集めたところにあるのではなく、「当用漢字」というひとつの制度を核として一見したところ何の関係もなさそうな事柄の間に一本の太い線を描いてみせる著者の力腕にこそ求めるべきだろう。たとえば、この本には「記号式投票と狭山事件」と題する節があるが、そこでは、かつて東京都知事選挙の投票方式を記号式に改めようとしたという今や忘れ去られた歴史と、それと同時期に発生し今でも決して忘れ去られてはいない重大事件とが表裏一体のものとして描かれる。昭和史の専門家が読めばどう思うのかはわからないが、少なくとも素人目にはこの手並みは非常に見事なものに感じられた。
また、著者は「漢字の唯一無二性」という観念を鍵として、非情な時代の波に呑まれた人々の悲憤をも描き出してみせる。その口調は決して声高ではなく、むしろ控え目といってもいい。しかし、それは舌鋒鋭い非難以上に胸に迫る。「水俣病患者たちのうらみ」という見出しの節では、まず1970年11月27日午後2時過ぎに今はなき大阪駅11番ホームに立つ「怨」の一字の幟を掲げた異様な集団を淡々と描き、次いで同じ「うらみ」という訓をもつ「恨」と「怨」の違いをいったん中国文学者の論文を引いて説明した上で、それとは異なる日本独特の微妙な相違を説き起こし、さらに水俣病問題以降に当用漢字ではない「怨」が新聞の見出しに頻繁にあらわれるようになったことを指摘し、そして最後に次のように結ぶ。

 「怨」の幟は、「怨」という漢字を、当用漢字という束縛から解放したのである。それは、漢字の唯一無二性が漢字の自由を勝ち取ったのだ、と見ることができるだろう。高度経済成長の果てに待ち構えていた、水俣病という重く苦しい問題の前に、「窮屈」を強制する当用漢字の思想は、まったくと言っていいほどに、無力だったのである。
 それほどまでの唯一無二性を身にまとった漢字は、もはや、「文字」ではなくなっているのではないかとさえ、ぼくは思う。「文字」というものが、本来は単なる意味伝達の手段なのだとしても、ときには漢字は、それ以上の、きわめて象徴的な役割を果たすことがあるのである。

むろん、この「勝利」は非業の死を遂げた人にとっては何の意味もない。だが、そんなことは百も承知のうえで、「さあ、どうだ!」と言いたくなってくるではないか。
当用漢字に採用されず、その後の常用漢字にも含まれず、もちろん学校で教わることもない「怨」を、そんなことは全く気にせずに今の我々はごくふつうに用いている。さあ、どうだ!
……もしかすると、本論以外の箇所に拘り過ぎたかもしれない。この本にはほかにも興味深い話題がいろいろあって、たとえば最後の節「自由と平等の相克」で提起されている、表現者が求める自由と受容者に与えられるべき平等とのバランスの問題なども非常に重要なことだと思う。だが、新年初めての読書感想文ということで少し張り切りすぎてしまったので、この辺でお開きにしたい。拙文を読んで「なんか面白そうな本だ」と思った奇特な方には、この感想文が極めて偏向していることを念押しするとともに、それぞれの関心に沿った読み方でこの本を楽しんで頂きたいと願う。