そろそろ「 そろそろ「ラノ漫」の記事についてひと言書いておくか。」についてひと言書いておくか。

見出しの頭の全角スペースと末尾の句点は仕様です。

 愚にもつかない駄作を引き当てたときの情けなさを思えばそれも仕方ないことだけれど、ここはひとつ冷静に考えてみよう。「何てつまらない本なんだ! 金返せ!」という血の叫びに正当性はあるだろうか。

 思うに、はずれを引いて腹を立てるひとは、その本一冊のことだけ考えるから腹が立つんじゃないだろうか。

 100%あたりをひきあてることはむずかしいわけで、読書人生全体のことを考えれば収支がプラスならそれでいいと、ぼくなんかは思うんですけど。

 そもそも、はずれを引いたときはお金や時間が無駄になるというなら、逆に、あたりを引いたときは値段分以上のものを手に入れているわけだ。

 ということは、仮にあたりとはずれが同じ割合だとすれば、「金返せ!」と叫ぶのと同じくらい、「金払わせてくれ!」と叫んでいないとおかしい理屈になる。でしょ?

これを読んで、「競馬*1なんて、どうせ平均すれば負けるように出来ているんだから、そんなのに金をつぎ込むのは馬鹿馬鹿しい」という主張を連想した。このようなことを言う人に対して、「では、あなたは自分の人生の喜びや悲しみもすべて平均するのですか?」と言った詩人*2がいたそうだ。
それはともかく、「金返せ!」と言いたくなるような本は世に溢れかえっている。今日、書店でそんな本を一冊見つけた。少し拾い読みしてみて、「これは……買って読んだら絶対に『金返せ!』と言いたくなるだろう」と思い、そっと棚に戻した。我ながら賢明な判断だったと思う。
で、ふと、もし仮に「金返せ!」と言ったとすると、いったいどの程度の返金を求めることができるのだろうか、と考えてみた。本の定価を仮に税込み1050円としよう。著者印税を10%とすれば100円だが、100円全部が著者の懐に入るわけではない。日本には源泉徴収という制度があって、収入に応じて率は変わるが、最低でも確か10%は差っ引かれることになっていたはずだ。とすると、著者の手取りは90円だ。残り10円は税務署に行ってしまう。これを「私は読者で、著者に返金要求をしているところだ。そこで、著者の所得税として支払われた10円を私に払ってほしい」と税務署に言って払って貰えるとはとうてい思えないのだが、どうだろう? 租税とか債権とかの法制度に詳しい人の意見を聞きたいものだ。
さて、現実的には90円しか返してもらえない、という前提で話を進めよう。この90円を返してもらうには、何らかの方法で著者に連絡をとり、読者がその本を新刊書店で買ったことを証明し、返金方法を指示することになるだろう。送金にかかる手数料をどちらが負担するのかも取り決めなくてはならない。よくは知らないが、銀行振り込みの手数料って105円くらいはかかるのではなかっただろうか? 全額読者持ちだと赤字になるから折半するにしても、手数料と相殺された返金額は40円を下回ることになる。手間の割には実入りが少ない。
それなら、「金返せ!」などと言わずに、読み終わった本を可及的速やかに古書店に叩き売ってしまうほうがいいのではないか。出てすぐの新刊なら50円程度で引き取ってくれるだろう。冷静に考えればそれがいちばん賢いやり方だ。
だが「賢」という字は「さかしい」とも読む。果たして本を古書店に売るだけで、「金返せ!」という悲痛な魂の叫び、絶望と呪詛に満ちた心の闇は癒されるのだろうか? いや、そんなことはないだろう。読者の思いは著者に届かず、ナイトガウンを身にまとってペルシャ猫の背をなでながらパイプをくゆらし、のんきに82年もののグラン・シャトー*3でも飲みながら次作の構想を練っていやがるんだ、彼奴めは! そんな輩には怒りの鉄槌を振り下ろしてやりたい。リストカットして、桐の箱に詰めて送りつけてやろうか。いや、その手は2回しか使えない。両手両足を使っても4回だ。そんなのでは全然足りない。愚作・駄作はもっともっと数多いのだから。
というわけで、人は「金返せ!」という重い思いをキーボードに叩き付けることとなる。鋭い分析も当を得た建設的な意見も何もない、ただ鬱憤を晴らすだけの文章をネットにアップするのだ。
その行為に正当性ありやなしや、などというのは愚問だろう。
酷評は、ただそこにある

賢明なる読者諸氏におかれては、以上の戯れ言を真に受けず、まっとうな読書人として読書感想文なり書評なりを書いていただきたい。なお、酷評の話も併せてお読みいただければ幸いです。

*1:別にほかのギャンブルでも構わないが。

*2:確か寺山修司だったと思うが違っていたらごめん。

*3:葡萄酒の銘柄のつもりで書いています。