泣けるマラソン選手の話

34 VIPがお送りします。 2008/02/23(土) 22:39:16.39 ID:NmMNUqAo0

スポーツ系なら自分は日本初のオリンピック出場マラソン選手の金栗四三の話を推す。


国内で世界記録を20分以上も塗り替えるような記録を出しながらも本大会では日射病で倒れ、行方不明扱いにされてしまった。

日本の期待を一心に背負いながら、それでも走りきれなかったことで、深い自責の念に駆られた。

それでも日本のマラソンの発展のために50年間尽くしてきた。


1967年、ストックホルムオリンピック委員会から「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないかという連絡が届いた。

式典後、当時のコースを懐かしげに辿る金栗。そして55年前にたどり着けなかったスタジアムに足を踏み入れた。

何故かそこには観衆と役員、そしてゴールテープ。思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った金栗。


『日本の金栗がただ今ゴール。

          タイムは55年…。

                 これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました』

この話は初耳だった。というか、金栗四三という人がいたことすら知らなかった。
で、ウィキペディアで調べてみると、同じエピソードが掲載されていた。

1911年(明治44年)、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となる。しかし、翌1912年(明治45年)のオリンピックではレース途中で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。

【略】

1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。実は、ストックホルムオリンピックでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で、これは世界一遅いマラソン記録である。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。

「いい話だなぁ」と思う。でも、倒れた地点からゴールまで正規のルートを走ったんだろうか? そうでないなら、記録として成立しないはずだが……と余計なことも考えてしまった。
この話には泣けなかった。
ラソン選手に関する「泣ける話」といえば、円谷幸吉の悲劇的な最期を思い出す*1。一昨年、何かの折にウィキペディアの「円谷幸吉」の項を読んで、改めて胸が締め付けられる思いがした。そして、円谷幸吉メモリアルマラソン大会の存在を知り、何とも言いようのない気分になり、「善意」が死者を駆り立てるという見出しをつけて紹介した。マラソン大会を企画したのは、きっと善良な人々で、死者を鞭打つような発想はなかったのだろう。故人の業績を讃えて後世にその名を伝えるのは決して非難に値する行為ではない。そう考えると、何ともコメントのつけようがなかった。
泣くということは、心の中の鬱屈を涙とともに排出することでもある。「泣ける話」には、心を浄化する働きがある。円谷幸吉の死にまつわるエピソードは、そのような意味で「泣ける話」だ。しかし、彼の死後15年を経て始まり、現在も続いているエピソードは、単純に「泣ける話」ではない。鬱積した何かが、涙とともに流されるかわりに、少しずつ着実に心の奥底にたまっていくような、そんな感じがする。
ああ、いやなことを思い出してしまった。今晩はもう寝よう。

*1:といっても、リアルタイムで知っているわけではない。『栄光なき天才たち』で読んだのが最初だったか。