あたらしい現実のはなし

まえがき

『幻視コレクション〜新しい現実の誕生〜』用に昨日書いた小説がタイトル分字数オーバーしたのでもう1本書いてみたのだが、どうやら先に投稿したほうを受付してもらえたようなので、投稿するのをやめた。「新しい現実の誕生」というテーマを意識しすぎて固くなってしまったのも投稿を控えた理由のひとつだ。でも、パソコンのこやしにするのももったいないので、ここで公開することにした。

本文

みなさん、あたらしい現実ができました。そうして平成二十二年五月三日から、私たち日本臣民は、この現実を守ってゆくことになりました。このあたらしい現実をこしらえるために、米農家の人々が八十八の苦心をなさいました。ところでみなさんは、あたらしい現実というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかかわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。
あたらしい現実は、これまでの現実とはまったくちがったトテモトテモすばらしい現実です。これまでみなさんがゆいいつで二つとない現実だとおもっていたものは消えさりました。形あるものはすべて消えてゆきます。そして、形あるものを形あるものたらしめるものもまた消えてゆくのです。こうしてふるい現実は消えてなくなり、モットモットすばらしいあたらしい現実がみなさんの前にあらわれたのです。
あたらしい現実は、これまでのふるい現実とはまったく比べることができません。どこがどうちがうのか、ことばであらわすこともできません。なぜなら、あたらしい現実は、あたらしいがいねんでできていて、あたらしいがいねんをいいあらわすことばはまだないからです。
では、私たちはどうやってあたらしい現実を受け入れればいいでしょうか。かんたんなことです。ふるい現実のなかで使われたふるいことばをすてて、あたまをカラッポにして、しだいにあたらしい現実があたまにしみとおるのをまてばいいのです。
サアみなさん、あたらしい現実をかんじるために、このすばらしい現実をじぶんのかぞくのようになじみぶかいものにするために、イエあたかもそこになにもあたらしいものなどなかったかのようにしぜんにふるまうために、あたまをカラッポにしましょう。
ふるいことばをすてて、あたまをカラッポにしましょう。ふるいことばは悪です。よこしまなことばのいみをわすれて、あたらしい現実のたんじょうをひふでかんじてことほぎましょう。サアあたまをカラッポに、からだでかんじてことばをわすれて、米農家の苦心をしのんで、あたらしい現実がさかえるようにしてゆこうではありませんか。