著作権と音楽は「人と人の間」で成立する

著作権は、それを「ある」と思っている人の頭の中にあります。作曲者が持ってるとか、曲に付随していたりとか、そういうものではありません。著作権があろうがなかろうが、曲自体にはなんの影響もないでしょう?(音質や音程が変わるとか) 実際、著作権のある/なしは、物理的現実にはまったく影響を及ぼしません。いや、どっかのHDDや書類に記録されてる内容や誰かの脳内のシナプスの結合がちょこっと変わるとか、そういうことはあるかも知れませんが。

文中2箇所の強調は前のほうが句点込み、後のほうは句点抜きだが、これは原文のまま*1なので、ご了承願いたい。
さて、「著作権は、それを「ある」と思っている人の頭の中にあります。」というのは非常に奇妙な見解だ。端的に誤りだと言っていいだろう。著作権にせよ、他の権利にせよ、物理的実体としてどこかにあるわけではないのは当然のこと。かといって、各人の頭の中にあるというのもおかしな話だ。「頭の中」というのが心理的な事柄を指すにしても、脳の物理的状態を指すにせよ、そんなところに権利があるわけがない。権利は常に「人と人の間」で成立する*2ものだ。
一方で、今引用した箇所の前段落には次のような記述がある。

で、まじめな話をすると、著作権などというものは「王様は裸じゃないってことにしようぜ」っていう取り決めに過ぎないわけです。というか、およそ「権利」というものは全部そう。ぼくと、あなたが、「この曲には著作権がある」ってことに同意すれば、ぼくとあなたの間ではそうなる。みんなが同意すればみんなの間でそうなる

ポイントは「ぼくとあなたの」「みんなの」だ。ここでは、著作権を始めとするさまざまな権利が、主観的な事柄であることが明確に示されている。ここまではっきり書いておきながら、なぜすぐあとで「頭の中」に権利を局限してしまうのか、不思議でたまらない。頭の中にあるのは権利意識とか権利尊重の念とかその類の事柄だが、もちろん権利と権利意識は同じではない。これは、幸福と幸福感は同じではないというのと似ている*3
ところで、冒頭の引用箇所に続いて、「そもそも音楽とはなんであるのか?」という興味深い問いかけがなされている。

ぼくは、音楽を音楽として成り立たせている最小限のものはなにか、ん〜っと考えてみました。そしてその結論はこうです。この場面を想像してみてください。ひとりが、歌をうたう。あるいは楽器を弾く。そしてもうひとりがそれに応える。拍手をする。体をうごかす。その往復の運動が、それ。声で音で、伝え・送られたそれを、体で言葉で、受け取り・返してゆく。

ここに原初の音楽があります。実に音楽とは、音楽を音楽として成らしめている核心は、たったこれだけのことです。2人居さえすれば、それは成る。だから、これ以上のものごとは、音楽の本質には関係がないのです。

歴史的な意味での「原初の音楽」については史料が遺されていないため、最初から聴き手を前提としたものだったのか、それとも最初は暗闇に向けた叫びのようなものだったのかは定かではない。ただ、歴史的文脈を離れれば、この見解はもっともだと思われる。
著作権は空気中を伝わらないが、一方、音楽は空気中を伝わる。
著作権は知覚不可能だが、一方、音楽は聴覚に訴える。
著作権と音楽はこのように全然別の性質を持っているが、にもかかわらず、ある一点で共通している。それは、どちらも「人と人の間」で成立する*4事柄だということだ。引用もとの文章は、鋭い洞察に基づき、この事実を示してみせている。もし、「頭の中」云々というノイズがなければ、そのことはよりクリアでわかりやすかっただろうに。そう思うと残念だが、筆者の意図は別にそういうことにあるのではない*5ようなので、まあ仕方がない。

*1:ただし、タグは強調タグに変更した。

*2:ここでいう「人」が生物学上のホモ・サピエンスを意味するかどうかは議論の余地がある。「動物の権利」を認める立場なら、「人」の範囲をより広くとるべきだと主張するだろう。今はこの問題に立ち入らないが、いずれ検討してみようと思っている。

*3:ただし、ある人の権利は必ず他の人の義務と対になるが、ある人の幸福が必ず他の人の不幸と対になるということは、少なくとも論理的には言えないので、このあたりの事情は少し違っている。

*4:ブレーメンの音楽隊」のように、人ならざる者が音楽を演奏したという事例、あるいは「セロ弾きのゴーシュ」のように、人ならざる者が聴き手となった事例は数多く伝えられている。それらの真偽は検討することはしない。とりあえず、ここでの「人」は必ずしも生物学上のホモ・サピエンスに限定する必要はない、とだけ言っておく。

*5:引用もとの文章全体の趣旨は、著作権や音楽についての存在論的分析ではなく、著作権ビジネス批判であることは言うまでもない。