日本語殺すにゃ計画いらぬ

日本語は滅ぼすべき。(なるべく計画的に) - 小学校笑いぐさ日記が話題になっているので読んでみたのだが、

別に「日本語は滅びた方がいいよ!」と言ってるわけではない。ないったらない。

これがよくわからなかった。見出しで謳っている「日本語は滅ぼすべき」は何だったのか? 「日本語は滅びた方がいいよ!」を含意しないとすれば、この「べき」は義務・命令ではなく、当然の成り行きを表しているということなのだろうか? たとえば「人はみな死すべきさだめ」のように。だったら「なるべく計画的に」というのは何なのか? というか、推量の助動詞「べし」の用法がどうこうというより、本文を素直に読めば「日本語は滅びた方がいいよ!」という含みがあるように受け取れるのだけど。
まあ、それはともかく。
最初のほうに

国語科出身の私ですが、実はもうそんなにがんばって日本語を保護しなくてもいいのではないかな、と思うのです。正直なところ。

と書いてあるのだが、これがさっぱり理解できない。今の日本で「がんばって日本語を保護」している人や勢力があるのだろうか? そりゃ、「正しい日本語」を普及啓発しようと頑張っている人は相当数いるけれど、その人々は「間違った日本語」または「日本語の乱れ」を糺して「正しい日本語」を守ろうとしている*1だけで、別に日本語を他の言語から守っているわけではない。それとも、もしかして学校で国語を教えるだけで日本語保護運動にコミットしたことになるのだろうか?
ほかにもいろいろ疑問があるのだが、全体的に散漫で主張も論拠もはっきりしない文章にいちいちツッコミを入れても仕方がないので、最後にひとつだけ。
「言語の変容というのは不可避的なものであって、少数の「知識人」が何か主張したところでどうにかできるものではない」なら、計画的に英語に移行するなどと余計なことを考えずに放っておけばいいではないか。そんなことに労力を浪費するより優先すべき課題が日本にはたくさんある。たとえば、未来の日本を背負って立つ子供たちを教育すべき教師の論理的思考能力欠如をどうするか、とか。物事を筋道立てて説明することができない小学校教師に教育を受けた子供たち一人一人が10年先、20年先に被る公算の大きい具体的な不利益に比べれば、その時に日本人が日本語を使い続けていることにより被るかもしれない抽象的で不確実な不利益より、ずっと切実な問題だと言えるのではないだろうか?

*1:このようなスタンスの是非について論じると長くなるので今は括弧に入れておく。