物語に「外枠」と「内容物」はあるのだろうか?

既存のパターンを繰り返す創作に意味はあるのか? - 魔王14歳の幸福な電波を読んで思ったこと。
物語を野球の試合に喩えて、「一回性」というキーワードでその価値を評価するというのは面白い試みだと思う。ただ、即興性の高い演劇とか口承文芸とか、そういったものならスポーツのアナロジーは成り立つが、記録され、反復継続して受容される事を前提として創作される物語にはあてはまらないのではないだろうか。もし、そのような物語も含めてスポーツと類比的に考えるなら、現に行われている試合にではなく、過去の試合の記録映像に喩えるべきだろう。いかなる試合の記録映像も他の試合の記録映像とはどこか違っているので、その点では「一回性」を有すると言えないことはないが、それは元記事で言われているような「一回性」とは異なるように思われる。同様に、創作の現場を離れて世に出た作品にも同程度の「一回性」しかなく、それをもって物語の価値だとは言い難い。
では、既存のパターンを繰り返す創作には意味はないのか? 「ない」と断言してしまっても構わないようにも思うが、それを言っちゃあおしまいなので、「ある」という方向で検討するのが政治的に正しい態度だろう。でも、何となく気分が乗らないので、「ある」とも「ない」とも判断せずに、別の視点を提示してみたい。
元記事では、物語には「外枠」と「内容物」がある、という前提に立っている。「外枠」が既存の作品と同じであれば、当該作品は既存のパターンを繰り返しているということになる。けれども、実際に物語を構成しているのは「外枠」や「内容物」ではなくて、ストーリーやら人物やら設定やらガジェットやら思想やら演出効果やらその他名前がついていたりついていなかったりする様々な要素であり、それらの要素の要素が複雑に絡み合ってできている物語を単純化・抽象化するための一つの分析ツールとして「外枠/内容物」があるというだけのことではないか。このツールは個別の作品に対して適用したときに、その作品が他の作品とどのように類似していてどのように違っているのかを鮮やかに示すことができる便利なものではあるけれど、もともと物語には一般に「外枠/内容物」という構造が備わっているのだというふうに固定化して考えるべきではない。
従って、「既存のパターンを繰り返す創作には意味はないのか?」という問いに対しては、「ある」でも「ない」でもなく、次のように答えることとしたい。「当該創作から『既存のパターン』を構成する手続き及び構成されたパターン次第である」と。これは要するに「場合によりけり」というありきたりで無難な回答に過ぎない。
たいていの場合、物語に意味を見出すには「一回性の価値」に訴える必要はなく、その物語に何かいいところを見つければ足りる。「いいとこ探し」がうまくいけば、「既存のパターンを繰り返す創作には……」などという非難は失当となるのだし、逆にどこをつついても全くいいとこなしの作品を「一回性の価値」に基づいて擁護をしても虚しいだけだと思う。