習慣と自発性

「感謝」は「歯磨き」とか「手洗い」とかと同じく習慣なので、毎日習慣付けていれば、閾値は下がっていく。ご飯がおいしい、とか、健康である、ということ対して、他者に感謝できるようになってくる。

【略】

「感謝」とか「思いやり」というのは習慣づけで簡単できるし、そんなに尊いもんじゃない。だからこそみんな進んでやるべきだと思うんだ。

これはなかなか面白い発想だと思った。これまでこんな考え方があることを知らなかった。
で、ふと連想したのがこれ。

これはちょっと考え方の違いがあるように思います(ちゃんと書いたつもりだったのですが)。ぼくは「謝りたくない」と言っているのではありません。「謝れない」と言っているのです。ぼく個人には謝るべきことはないから、謝罪の気持ちが沸かない、と、そう言っているのです。それは例えば、人を愛する気持ちは「愛せよ」と命令されることで沸いたりはしないのとまったく一緒です。それは静かに、内側から起こってくるのを待つほかないようなことです(南京問題の謝罪に関しては、それは起こらないでしょうけれど)。会社で自分が原因でないトラブルで結果的に謝罪するハメになった時と同じような謝り方でよければできますが。

「感謝」と「謝罪」はもちろん別の事柄だが、この種の話題にも応用可能なのではないか、と思った。思っただけで深く考えているわけではないけれど。

追記

感謝というのは、少なくとも上の引用文の文脈では行為だ。謝罪もまた行為だ。そしてどんな行為でもそうだが、「本心」あるいは「内側」との関わりという点で、二通りの考え方を想定することができる。
ひとつは、行為の前に心の内側にその行為を引き起こす原因があって、それが内から外にあふれ出てきたものが当該行為である、という考え方。
もうひとつは、行為とは外的な振る舞いそのものであって、心の内側に秘められた意図や感情などというものは全くないか、仮にそういうものがあったとしても行為とは関係がないという考え方。
前者は素朴な常識にはよく合致しているけれど、ある程度の哲学的反省を経た後では素直に受け入れがたい。後者は理論的明晰さという魅力を持ってはいるけれど実感が伴っていない。
「習慣」という鍵概念を用いることは、行為の原因となる心は存在しない、とか、心は行為とは無関係だ、というような極論を退けつつ、心に「不動の動者」のような特権的身分を与えることを拒否することができるうまいやり方のように思われる。そんなことを考えて書いた文章ではないのだろうけれど。