気の持ちようではどうにもならない事もある

仕事が立て込んできて、明日は休日出勤することになった。気が重い。
「週休二日ではなくて、もともと土曜日も勤務日だったのだ!」と思うことにすれば、気分も晴れるかもしれない。要は気分の持ちようだ。
だが、それだけではどうにもならない事もある。たとえば、空調。エコオフィスとやらであまりクーラーの効きはよくないものの、いちおう平日の昼間は仕事場に冷房が入っているのだが、土日はそれが切られていて蒸し風呂のような暑さとなる。
えっ、「心頭滅却すれば火も亦た涼し」*1だって?
でも、そう言った快川和尚*2は焼死したしなぁ。
そういえば、昔読んだマルクス主義通俗的な入門書*3で「心頭滅却」のエピソードが唯物論の正しさを実証するものとして取り上げられていたことを思い出す。冷静になって考えてみれば、主観的な思いこみが物理現象に負けた例*4があったからといって、直ちに唯物論が正しいということにはならないのだが、当時はまだ子供でそのような理屈がわからなかったので素直に感心したものだ。
今では唯物論を積極的に支持しようとは思わないが、それでも外的世界の実在は信じている*5し、世界のうちのあるものは気の持ちようでどうにかなるとしても圧倒的に多数のものは気の持ちようではどうにもならないということも信じている。
どうにもならない事でも生きている限りはどうにかしていかなければならない。これはある意味では不条理なことではあるが、だからといって「そのような不条理は妄想だ。すべては気の持ちようでどうにかなるのだ!」と言ってしまう*6のも困りものだと思う。

*1:「火も自ずから涼し」とも言う。

*2:別人の言葉だという説、または後世の捏造だという説もある。

*3:本のタイトルは忘れた。

*4:心頭滅却」をそのような例として解釈するのは矮小化ではないかという気もするが、今はそれを問わないことになる。

*5:外界の実在論唯物論の必要条件ではあるが十分条件ではない。

*6:ある種の人や団体はこれに近いことを平気で言う。