十月十日では遅すぎる

時に消えたキミと歪曲の十日間―デイ・トリッパー (徳間デュアル文庫)

時に消えたキミと歪曲の十日間―デイ・トリッパー (徳間デュアル文庫)

今日の見出しは『銀河パトロール報告』所収作品から借用した*1が、もちろん内容は無関係だ。「十月十日」は「とつきとおか」ではなく「じゅうがつとおか」と読んで下さい。
この作品については、一昨日、同じ著者の『輪舞曲都市 Ronde‐City』を紹介した際についでに言及したが、そのときはまだ本篇を読んでいなかったので、タイトルや紹介文などから今はやりの(?)時間ループものではないかと推測した。
間違っていた。
時間テーマSFであるのは確かだが、時間ループものではなく時間シャッフルものだった。「時間シャッフル」という言葉が理解しづらい人は『タイム・リープ―あしたはきのう』を思い起こして下さい。『タイムリープ』を読んだことがない人は……ええと、いま入手するのは難しいようなので、かわりに『時に消えたキミと歪曲の十日間』を薦めておきましょう。
さて、同じ時間テーマといってもループものとシャッフルものは、ストーリーを構築する上での制約のきつさが大きく違っている。ミステリに喩えるならミッシングリンクと密室くらいの違いはあるだろう。予め骨格が定まった時間の流れの中で、いかにして物語を盛り上げていくか、作者の伎倆を味わうのが時間シャッフルものの楽しみの一つだ。
しかし、そういう観点で『時に消えたキミと歪曲の十日間』を読むとかなりルーズな書き方をしているように思われる。物語の終盤、305ページから307ページにかけての記述はある意味では反則技だ。とはいえ、このシーンを読んでアンフェアだと思う人は少ないだろう。この小説が厳格なルールの下で論理の城を構築するタイプの小説ではないことは、それ以前の段階でだいたい察しがつくのだから。『時に消えたキミと歪曲の十日間』の眼目は上述の時間シャッフルものの楽しみとは別のところにある。それは、他人と異なる時系列のもとで日常を過ごす主人公と周囲の人々、特にヒロイン、との認識や記憶のギャップが生み出す面白さだ。「時間シャッフルという設定によるシチュエーションコメディ」というのは言い過ぎかもしれないが、さほど的を外しているとも思わない。
時間SFだとかシャッフルものだとかあまり難しいことを考えずに、気弱で後ろ向きな少年と彼が憧れるはきはきさばさばした少女の関係を描いた学園青春小説だと思って素直に読むほうが、この小説を楽しむことができるかもしれない。よく読めば、ごく日常的な会話やそぶりなどから、二人の関係の微妙な変化が読み取れるように書かれており、作者が細心の注意をもって丹念に作品を仕上げていることを窺い知ることができる。また、おいしいコーヒーのいれ方を説明するシーンなど、ストーリーの進行には直接寄与せず端折っても差し支えないと思われる箇所でも手を抜かず、かといって細部に拘って迷走するわけでもなく、熟練のベテランの「筆の余裕」のようなものすら感じさせられる。
正直にいえばSF考証はもっとしっかりやってもらいたかった*2が、それはともかく、今はこの人にはもう一度オリジナル作品を書いてもらいたいという希望が意外と早く叶えられたことを喜びたい。梅村崇という作家の存在は、ライトノベル読者の間でもまだあまり知られていないと思われるが、これを機会に同姓同名のサッカー選手のニセモノ以上の認知度が得られることを期待しておこう。

追記

上の記事をアップしたのは22時13分48秒のことだが、その2秒後の22時13分50秒に石野休日氏の感想文がアップされている。やはり筋金入りのSFファンだけあって、この小説の難点をずばずばと指摘している。これから読もうかどうしようか迷っている人は、ぜひ併せて参照してみて下さい。

*1:もちろん、遡れば元ネタは『10月1日では遅すぎる』だが、これは読んだことがないので、どんな小説なのか知らない。

*2:たとえば42ページの「四次元的視覚」の説明はよく考えるとおかしい。二次元を複合して擬似的に四次元を把握するのなら目が三つ必要だが、単眼で三次元を把握できるのなら四次元的視覚を得るのには目が二つあれば足りるのではないか。