今こそ談合の復権を求む!

また、議会と市長は2元代表制ということになっています。これは真実ではありません。議会は議論ではなく、多数派議員の談合、つまり議員の独裁で決める仕組みになっています。この点は国会も同じです。

この文章を読むと、「議論」という言葉には肯定的または中立的な含みが与えられていて、それと対置されている「談合」には否定的な意味合いが割り当てられているように見受けられる。だが、もともと「談合」というのは、相して意を形成するという程度の意味で、特に悪事に限って使われる言葉ではなかった。
試しに青空文庫からいくつか用例を引いてみよう。

するとその後間もなう起つたのは、その傘張の娘が孕つたと云ふ騒ぎぢや。しかも腹の子の父親は、「さんた・るちや」の「ろおれんぞ」ぢやと、正しう父の前で申したげでござる。されば傘張の翁は火のやうに憤つて、即刻伴天連のもとへ委細を訴へに参つた。かうなる上は「ろおれんぞ」も、かつふつ云ひ訳の致しやうがござない。その日の中に伴天連を始め、「いるまん」衆一同の談合に由つて、破門を申し渡される事になつた。元より破門の沙汰がある上は、伴天連の手もとをも追ひ払はれる事でござれば、糊口のよすがに困るのも目前ぢや。したがかやうな罪人を、この儘「さんた・るちや」に止めて置いては、御主の「ぐろおりや」(栄光)にも関る事ゆゑ、日頃親しう致いた人々も、涙をのんで「ろおれんぞ」を追ひ払つたと申す事でござる。

去る大正十三年のことだつたが、ぼくは友人の上原長柏、西野治平、高見沢遠治三君と互に記憶を分ち合つて(何れも昔近くに住み交はした者同士だつたが、すでに上原・高見沢両君亡く、これも長逝された吉田白嶺氏も談合に参加した。白嶺氏はわれわれ組が西両国だつたに対して、一人だけ東両国党だつた)、お互ひに昔住んでゐた土地のなるべく昔の一軒々々の家々の有りやうを地図にかき入れておいたものがある。――それによると、さすがに表通りは横山町、吉川町、米沢町、元柳町薬研堀町等々、互ひに相当詳しかつたけれども、細かい路地の一軒々々、といふまでには調べ尽されてゐない。そのくせ親しさは日常、一日に必ず一度は四丁目の頭から一丁目の尻尾まで通り抜けずにゐなかつた、足音や話声の高く特殊に響く路地裏。――

二月十六日は土曜日であつた。午後に教室を辞して、法文科大学の裏街にある書店を訪ね、かねて註文しておいた心理学の雑誌に就いていろいろ談合した序に、カフエ・ミネルワのことを聞いてみた。若い店員は奥の方に入つて行きしばらくすると、一人の老翁が出て来て云ふに、『それはやつぱり元のところに建物がありますよ。いまは踊場か何かになつてをりますよ』。

「お米」と甚内はやがて云った。「心に蟠(わだか)まりがあるらしいの。膝とも談合ということがある。心を割って話したらどうだ。日数は浅いが馴染は深い。場合によっては力にもなろう。それとも他人には明かされぬ大事な秘密の心配事ででもあるかな?」

ああ、可哀想な「談合」。薄汚い悪巧みにまみれてすっかり評価を落としてしまった。
言葉の意味が時代の移り変わりにつれて徐々に変化していくのは自然なことであり、ことさら目くじらを立てても仕方がないのだけど、この哀れな「談合」の凋落ぶりをみるにつけ、憐憫の情を禁じえない。
かつて「談合」は光の中にあったことを、どうか心の片隅にとどめておいてください!