直流人口

最近、としのせいか物忘れがひどくなったので、何か思いついたらすぐにメモをとっておかないと、二度と思い出すことができない。
まあ、すぐに忘れてしまう思いつきというのは、所詮その程度のものだと割り切ってしまえばいいのだが、下らないことや役に立たないことでも完全に無に帰すのはさびしいものだ。
そこで、しばらく前まで外出するときにはいつもメモ帳を携帯していたのだが、あるとき、車中にかばんを置いて温泉に入っている間に車上荒らしにあい、窓ガラスを割られて鞄を盗まれてしまった。それで、今はメモ帳がない。
メモ帳のかわりに今はTwitterでつぶやくことにしている。Twitterは他人の目に触れるのが前提だから、私的なメモには向かないようにも思ったのだが、案外、ただの思いつきを他人に読まれて困ることはない。
前置きが長くなったが、先日のつぶやきをひとつ紹介しよう。

「交流人口」という奇妙な概念、いや特定の概念を表示しているのかどうかも怪しい言葉には以前から疑念を抱いていた。

だが、しゃかりきになって概念分析を行い、「交流人口」の虚妄を暴き立てるという気にもならない。そのような理詰めの批判では、理外の理に従っている人々には響かない。それよりも、わずかな言葉でぐさりと急所をえぐることはできないものか。そう考えているときに思いついたのが「直流人口」というフレーズだ。言うまでもなく、送電方法の「直流/交流」に引っ掛けたもので、特に決まった意味はない。
思いついたらすぐに書いておかないと忘れるので、とりあえず適当に前後の言葉を見繕ってつぶやくだけつぶやいておいたのだが、後になってみると、どうもこの「直流人口」には前例があるような気がする。そこで検索してみると、やはり前例が見つかった。

大型の観光バスで来町され多和平や湿原に感動していただくのもありがたいが、只これだけでは人対人の交わりが生まれず、 ”直流人口“でしかない。そして、景観のみの感動では余程のことでない限り再度の来訪にはつながらないのではと思う。それに引き換え、来町された方々と何らかの接点が生まれ ”もてなしの心“や、 ”誇りに満ちた愛町の思い“が来訪者に伝わる時、その出会いに友情や信頼が育ち、交流へと発展する。

これは、標茶町が発行している広報しべちゃ1998年9月号に掲載されている、当時の町長のエッセイの一節だ。なんと10年以上も前に「直流人口」が使われていたとは!
意外なことにこの文章は「交流人口」という言葉を揶揄するために「直流人口」を持ち出したのではない。いや、冷静に考えれば別に意外でもなんでもないのかもしれないが、自分が「直流人口」を思いついた背景が背景だけに、このような文脈で「直流人口」が用いられていることに驚いたのだ。
私見では、「交流人口」のいかがわしさは次の2点に集約される。

  1. 人と人の交流がよいことであるということを無条件に前提としている。
  2. よそから来る人とそれを迎え入れる地域の人との関係が非対称的である。

他者との交流は全く無意味で唾棄すべきものだ、などと強く主張する気はない。そこまで厭人的な性格ではない。だが、交流が常によいことで望ましいことだとは思わないし、おしなべて言えばよいことのほうが多いとも思わない。「交流するのはいいことだ」という無邪気な考えは、それに馴染めない人を疎外する。あるいは、無邪気に排除したり差別したり無視したりすることもある。これは大きくて重い問題だ。だが、今はこれ以上、議論を展開する用意がない。
「交流人口」のいかがわしさの第2点に話を移そう。
人と人が交流するのはよいことだ、とする。なるほど、よろしい。では、自らの住む地域から外に出て、多くの人がいる都会で交流するのかね? いやいや、そんなことは交流のよさを喧伝するまでもなく、多くの人がやっていることだ。都会の人と交わり親しみ、やがて居を都会に移す人がどれほどいたことか。そして、往年に比べれば鈍化したとはいえ、今もなお、地方からの人口流出は続いている。
人口流出を食い止めよう。そして、いったん都会に出た人を呼び戻そう。さらに、もともと都会で生まれ育った人も引き込もう。そうやって、過疎地への定住を目指したものの、いくら続けても流出に見合う人口が流入することはなかった。そこで考え出されたのが、「交流人口」だ。
観光客が田舎を訪れても、別に人口が増えたというわけではない。だが、「交流人口」が増えたと表現することは可能だ。田舎に別荘をもって、たまに週末を過ごす人がいれば好都合だ。すばらしい「二地域居住」を実践しているのだ。「交流人口」が増加すれば、やがて地域の魅力に気づいた人が、都会を離れて移住してくれるかもしれない。そうなれば、もはや「交流」は不要だ。端的に、「人口」が増加するからだ。
……ああ、なんと悲しい話だろう。「交流人口」は悲哀に満ちている。言葉を取り繕って、現実から目をそらし、夢を語る以外には、もはや何もできないのか?
本当は、「交流人口」という言葉からにじみ出る浅ましさや身勝手さを実例に即して指摘しようと思っていたのだが、「交流人口の増加」を標榜するいくつかのサイトを見ているうちに、哀愁というか悲痛な声なき叫びのほうが強く感じられて、晒すのが申し訳ない気分になってきた。
もうよそう。そっとしておこう。
やがて、時がすべてを解決してくれることだろう。

参考
統計局ホームページ/国勢調査