それは世にもあさましい

「それは世にもあさましい、人倫にももとることなのだ。しかし、いったん同性愛地獄におちたがさいご、それはもう麻薬の味をおぼえたのもおなじだそうだ。異性の愛人の場合とちがって、対象が同性の場合、撰択の範囲が限定される。じぶんの好みにかなうあいてがいても、それがおなじ趣味に惑溺してくれるかどうか疑問だからね。○○さんにむかしそういう趣味があったのか、△△に誘惑されて同性愛地獄におちたのか、とにかくそうなってからの○○さんは、おさらく△△の意のままに操られてきたことだろう」

これは平成20年5月5日発行『三つ首塔』改版17版*1306ページからの引用だ。物語が終盤に差し掛かったところなので、未読の人のために人名を伏字にしたが、それ以外には手を加えていない。「撰択」は原文のままだ。
巻末には次のような断り書きがある。

本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。(平成八年九月)

角川文庫の『三つ首塔』は昭和47年8月30日に初版が出ている。今から39年前のことだ。その後、平成8年4月24日に49版まで出たところで改版された。改版第1版発行日は手許の本には記載されていないが、断り書きから考えて平成8年秋のことだろう。
角川文庫の横溝正史は最盛期には100冊くらい出ていたと記憶しているが、平成に入った頃にはかなり品切れが増えていた。このまま全滅か、と思っていたら「金田一耕助事件ファイル」と称して続々と再刊された。『三つ首塔』は「金田一耕助事件ファイル13」だ。
この平成の改版では文章にかなり手が入っているという話を聞いたことがあるが、『本陣殺人事件』や『獄門島』などの有名作は以前の版で持っているのでわざわざ買いなおすことはしていないから、どれくらい変わっているのか自分の目では確かめていない。ぱらぱらとページを繰って、章の見出しに装飾が施されていることと、解説が省略されていることに気づいた程度だ。
『三つ首塔』は昔、横溝正史を集中的に読んでいた時期に読み逃していたもので、最近とある事情で読むことになったため、「金田一耕助事件ファイル」で購入した。文字が大きくなって読みやすいのは助かったが、小説そのものはあまり面白いとは思わなかった。探偵小説として全く駄目な作品で褒めるべき点が全くない。それはまあいいとして*2、女性の一人称で書かれているのに、男性の欲望が滲み出しているのには辟易した。これはフェミニストでなくても眉をひそめるレベルだ。
だが、そんなことより、いちばん問題だと思ったのが冒頭で引用した箇所。「同性愛地獄」というのはあまりにも酷すぎる。差別意識丸出しだ。
とはいえ、現在の読者がこの小説を読んで、同性愛者への差別が助長されるとは考えにくい。もちろん、今でも同性愛者への偏見や差別は拭い去りがたく存在しているが、この小説での同性愛者の扱いはそのようなレベルではないため、同性愛差別者であっても失笑せざるを得ないだろう。
なるほど、そう考えれば「一部を編集部の責任において改める」際に、この箇所をそのままにしておいた*3のは賢明だったと言えるかもしれない。
ところで、この『三つ首塔』、5回も映像化されていることに驚いた。本陣殺人事件』とタイか……。

*1:17版というより17刷というほうがしっくりくるが、ここでは奥付の表記に従うことにする。以下同じ。

*2:本当は全然よくない。

*3:旧版を持っている人にこの箇所だけ見せてもらって、現行の版と違いがないことを確かめてある。ただし、それ以外の箇所は読み比べていないので、どこがどう変わったのかは知らない。