坂口安吾「推理小説論」についての覚書

青空文庫坂口安吾の「推理小説論」が収録された。

非常に面白い文章なので、ミステリに関心のある人は是非ご一読を……と言いたいところだが、残念ながら手放しではお薦めできない。というのは、ネタばらしが多いからだ。
以下、安吾がネタをばらしている作品名を掲げるので、未読の人は上のリンク先をクリックせずにそのまま立ち去るほうがいいと思う。ただし、忘れっぽい人、ミステリのトリックや犯人を気にしない人、古典作品など読みたくもないという人はその限りではない。

黄色い部屋
御存じガストン・ルルーの名作。創元だと『黄色い部屋の謎』でハヤカワだと『黄色い部屋の秘密』だ。なぜか創元は「謎」が多く、ハヤカワは「秘密」が多い。なお、安吾は密室トリックを間違えて紹介しているので、これはネタばらしのうちには入らないかもしれない。
蝶々殺人事件
横溝正史の傑作の一つ。金田一耕助のデビュー作『本陣殺人事件』と同時期に連載されていたが、こちらは戦前のシリーズキャラクター由利麟太郎が探偵役。なお、安吾が紹介しているトリックは後に『病院坂の首縊りの家』で再使用されている。犯人は『蝶々殺人事件』を読んでトリックをパクったという設定だ。『蝶々』と『病院坂』の両方に等々力警部が登場するが、トリックを見破れないのが情けない。
アクロイド殺し
例のアレばかりが有名だが、そういえばこんなトリックも使われていた。
三幕の悲劇
この作品のメインはホワイダニットなので、この程度のネタばらしはどうでもいいような気もするが、まあ予断なしに読むに越したことはないでしょう。
吹雪の山荘
「吹雪の山荘」といえばクローズドサークルものの代名詞ともなっているが、ここではもちろん小説のタイトル。現行の訳題は『シタフォードの謎(秘密)』だ。もちろん「謎」が創元で「秘密」がハヤカワ。
Yの悲劇
かつては海外ミステリの最高傑作と言われたこともある。「この「Yの悲劇」が目に入らぬか」と掲げれば、どんな口うるさいミステリファンもひれ伏すというありがたい名作、というのは言い過ぎだが。
門島
こちらは国内ミステリ最高傑作と言われたことがある。いまオールタイムベスト調査を行ってもかなり上位に食い込むのは間違いないだろう。

今気がついたのだが、ここに挙げた作品はすべて現在新刊書店で入手可能で、しかも複数の文庫から出ているものばかりだ。安吾が「推理小説論」を発表した1950年当時には『黄色い部屋の謎』を除けば評価の定まった古典作品というわけではなかったはずだが、56年後の今でも難なく読める作品ばかりに言及しているという点に彼の卓越した洞察力を感じる。
とはいえ、「推理小説論」そのものを56年後の人間が予備知識なしに読むと、多少読み取りにくいところがあるかもしれない。以下、少し気づいたことを書いておこう。


 推理小説というものは推理をたのしむ小説で、芸術などと無縁である方がむしろ上質品だ。これは高級娯楽の一つで、パズルを解くゲームであり、作者と読者の智恵くらべでもあって、ほかに余念のないものだ。
 しかし、日本には、探偵小説はあったが、推理小説は殆どなかった。小栗虫太郎などはヴァン・ダインの一番悪い部分の模倣に専一であって、浜尾四郎甲賀三郎の作品も、謎解きをゲームとして争う場合の推理やトリックの確実さがない。終戦前の探偵文壇は怪奇趣味で、この傾向は今日も残り、推理小説はすくないのである。
推理小説」という語は戦前に木々高太郎がかなり特殊な意味で提唱したことがあったが、戦後、「偵」が漢字制限に引っかかったという外的な要因で一気に広まり、その後「ミステリー/ミステリ」が台頭した現在に至ってもある文芸ジャンルを示す言葉として広く用いられている。
ただ、人によって「探偵小説」と「推理小説」の用法はまちまちで、江戸川乱歩などはあまり厳密な区別をしていなかったようだが、ここで安吾は明らかに「探偵小説」と「推理小説」を使い分けている。
大雑把にいえば、長らく「探偵小説」の名称とともに受容されてきた文芸ジャンル全体をそのまま「探偵小説」と呼び、その中で特に謎解きの興味を中心に据えた作品を「推理小説」と呼んでいるようだ。だが、安吾推理小説について語ったほかの文章も参照してみないと確かなことは言えない。

「黄色い部屋」は密室殺人の元祖でもある。このトリックは簡単ではあるが、それだけ現実的でもあって、犯人は犯行が発見されたとき、鍵のかけられた密室の現場にいたのである。扉があけられたとき、扉の裏側にブラ下って隠れ、やがて見物人がきたとき、自分もその一人のフリをして、室内に現れていたのである。
先にも述べたように安吾はどうも『黄色い部屋の謎』の密室トリックを勘違いしていたようだ。それはともかく、この作品が密室殺人の元祖だというのは解せない。『ビッグ・ボウの殺人』は未訳だったので読んでいなかったのかもしれないが、さすがに「モルグ街の殺人」や「まだらの紐」を読んでいなかったわけではないだろう。

 個々の傑作としては、クリスチー女史、クィーン、ヴァン・ダインの諸作は別として、「矢の家」「観光船殺人事件」「ヨット殺人事件」「赤毛のレドメイン」ほかに思いだせないが、まだ私の読んだ限りでも十ぐらいは良いものがあったはず、しかし、百読んで、二ツか三ツ失望しないものがある程度だ。世界的に名の知れた人々の作品で、そうなのである。
『矢の家』はA.E.W.メイスン、『赤毛のレドメイン家』はイーデン・フィルポッツの代表作で、どちらも創元推理文庫で読める……と思うが今でも生きているのだろうか? 『観光船殺人事件』も『チャーリー・チャンの活躍』というタイトルで、これも創元推理文庫に収録されている。
『ヨット殺人事件』だけがよくわからない。C.P.スノウの『ヨット船上の殺人』かとも思ったのだが、手許の資料によれば邦訳が出たのは1964年なので違うようだ。御存じの方はご教示ください。

 横溝正史の雰囲気好みは性格的なものであるが、高木、島田両君はそうでないようだから、雰囲気はサラリとすてて、クリスチー女史の簡潔軽妙な筆を学んだ方がよい。クリスチーは私にとっても師匠なのである。
 ほかに川島郁夫という新人が、筆力も軽妙、トリックの構成も新味はないが難が少く、有望である。一番達者のようだ。
 探偵小説も、抒情派や怪奇派には、大坪、山田、宮野、香山など新人がいるが、純粋な推理小説作家ではない。
横溝正史と川島郁夫以外は姓しか記されていないが、順に高木彬光、島田一男、大坪砂男山田風太郎、宮野叢子(宮野村子)、香山滋だ。なお、川島郁夫は後に藤村正太と改名している。