同性愛と近親相姦と論理的一貫性

愛があれば同性愛もOKという人は近親相姦もOKというべき? - Togetterを読んで少し考えてみた。このまとめ記事に含まれていないツイートの中にも示唆的なものがいくつもあるのだが、論点を絞るためにあえてそれらには言及しないことにする。
まず、まとめ記事冒頭のツイートを引用する。

2番めのツイートはこれ。
この先、両者の応答が続くのだが、引用はこれだけにしておこう。
このやりとりで興味深いのは、理由づけられるものと理由づけるものとの関係を論理的にどう評価するのかについて意見のずれがあるということだ。
標準的な形式論理では、「AならばB」「AかつB」「AまたはB」というような関係は扱うが「AだからB」は扱わない。というのは、「AだからB」には論理が要求する普遍性がないからだ。「今日、雨が降ったから外出するのはやめにする」というのが外出をとりやめる正当な理由だとしても、明日雨が降った場合に外出したら論理的一貫性を欠くことにはならない。
とはいえ、「AだからB」は全く論理と無縁の事柄かといえばそうでもない。理由づけには正当なものと正当でないものがあり、正当な理由づけであるなら、他の事柄についてもある程度応用可能だが、正当でない理由づけは他の事柄に応用することはできない、と普通考えられている。これは、論理的な「妥当性」に何となく似ている。
問題は「同性愛について言える事柄は近親相姦についても言えるはずだ」と考えられるかどうかで、もしそう考えられるのだとすれば「『愛し合っているならOK』が同性愛について成り立つなら近親相姦についても成り立つ」ということになる。対偶をとれば「『愛し合っているならOK』が近親相姦について成り立たないなら同性愛についても成り立たない」となり、これを「『愛し合っているならOK』は近親相姦について成り立たない」と組み合わせれば、「『愛し合っているならOK』は同性愛には成り立たない」ということになる。
一方、「同性愛と近親相姦の間には異なる事情があり、必ずしも同じ基準が適用されるわけではない」と考えるなら、「同性愛については『愛し合っているならOK』が成り立つが、近親相姦については成り立たない」という主張も可能となる。ここに論理的一貫性の欠如はない。
結局のところ、同性愛と近親相姦の類似性をどの程度に見積もるのかによって、論理的一貫性の有無が決まることになるが、言うまでもなく「同性愛と近親相姦の類似性の程度」というのは論理的な事柄ではないため、論理的に片付けることができない。
なお、「論理」という言葉を狭くとるかどうかによっても「論理的一貫性」の意味合いが違ってくるのだが、その話題に踏み込むと話がややこしくなるのでやめておく。もう、これだけでも相当ややこしくてお腹いっぱい、という人のほうが多そうだし。