サマーウォーズを見て死にたくなっても、映画の半分を見ていないというわけではない

当初はスルーするつもりだったのだけど、ちょっと困った展開になってきたので、少し考えてみることにした。

ちくちくと現実風味を効かせて来やがるくせに、

気付けば結局、世界を救うのは世界レベルの才能とコネあらばこそ。

そうでなくともオタク部に一輪の美人のセンパイ。東大、留学、甲子園。仲の良い大家族。

俺にはなーんもなかったなあ。

いい映画だよ。いい映画なんだよ。なのに吐きそう。

何この「耳をすませば」を凌駕する非モテ殺戮映画。(参考:「耳をすませば」「自殺」でGoogle検索)

まずこれが出発点。
かなり自虐的な感想ではあるのだが、別に大きく的を外しているわけでもないと思われる。こんなことを思う人がいても当然でしょう、と。

しかし、かれは、たとえば「東大、留学」のその裏にかくされた侘助の孤独を見ない。侘助と祖母栄とのあいだのコミュニケーション齟齬を見ない。たがいに愛しあい、思いあいながら、どうしようもなく傷つけあってしまうその切なさを見ない。

つまり、かれは物事のプラスの側面しか見ず、マイナスの側面を無視するのである。これでは、映画の半分を見ていないに等しい。

そしてまた、もし、自分より幸福な人物が出てくる映画を見て非モテの自分を哀れむことが正当だとすれば、論理的にいって、自分より不幸な人物が出てくる映画を見たときは、「ああ、ただの非モテで本当に良かった!」という反応が出てこなければおかしいはずである。

この批判にはロジカルな誤りが少なくともひとつ含まれているが、それは本題ではないので本文には書かないことにする*1。ここで注目したいのは「かれは物事のプラスの側面しか見ず、マイナスの側面を無視する」という要約の仕方であり、それに続く「これでは、映画の半分を見ていないに等しい」という評価*2である。
この批判を読んで、元記事の筆者が「俺にはなーんもなかったなあ」と書いている重みを海燕氏は半分しか理解していないのではないか、と思った。なるほど、ここには自分よりも幸福な者へのやっかみも含まれているだろう。だが、それ以上に、非凡な才能やコネクションをもつ者のみが参画可能な物語への羨望がひしひしと表れているというのに。
侘助の孤独も、彼と栄とのコミュニケーション齟齬も、「幸福/不幸」という基準でみるのではなく「物語への寄与」という観点から評価するなら十分に価値のある事柄だ。他方、非モテには物語への参画に足る孤独も他人との齟齬もない。非モテの孤独はただの孤独だ。彼もしくは彼女には喜劇も悲劇もなく、ハッピーエンドもアンハッピーエンドもなく、バラ色の未来も闇黒の未来もなく、ただただ砂色の世界*3が茫洋とひろがっているのみ。物語から絶望的に遠ざけられた非モテのやるせなさが海燕氏にはわからないのか? わからないんだろうなぁ。
ともあれ「幸福/不幸」とか「プラス/マイナス」という尺度で元記事を分析した海燕氏の批判は失当と言うべきだろう。
だが、この程度のことなら、ことさら取り上げるまでもない。話が怪しくなってくるのはこれからだ。

言いすぎでしょ。

いったいこの6行のどこにここまで断言できる要素が? 孤独も見たしコミュニケーションの齟齬も見たけど、それでも彼にはあの映画がそう見えちゃったのかもしんないじゃん。

この指摘*4は至極まっとうなものだと思われる。元記事の筆者が侘助の孤独もコミュニケーション齟齬もきちんと読み取った上であのような書き方をしたのだとすれば*5、あのような記事を書いたことについての批判を受けることはあっても、「映画の半分を見ていない」という批判は当然成り立たなくなる。
この指摘に対して海燕氏はどう回答したのかといえば……

なるほど、たしかにその箇所の表現は過剰だっただろう。その点は反省し、お詫びする。

ただ、ぼくもまた、「彼にはあの映画がそう見えちゃった」のだろう、とは思っていて、その上で、それは映画の半分の見逃しているに等しいといっているのである。

仮に、ぼくが何かの映画を見、その見方をネットに発表して、批判を受けたとする。そのとき、「ぼくにはそう見えちゃったんだからしかたないじゃないか!」といえば、批判者は納得してくれるだろうか。そうは思えない。

たしかに「どう見えちゃったか」は個人の内面の問題である。しかし、その見え方を文章にしてネットに発表した時点で、それに対する責任は発生するはずだ。したがって、過剰な言い草であったことは認めるが、批判そのものが不当であったとは思わない。

いやそれ、批判そのものが不当ですから。表現が過剰かどうかというレベルの話じゃなくて。
「映画の半分を見ていない」という批判の「半分」とは、「侘助の孤独」や「侘助と祖母栄とのあいだのコミュニケーション齟齬」などと例示されている。より一般的に言えば「物事のマイナス面」だ。これは非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orangeではっきりと書かれていることであり、たとえ海燕氏本人の言葉であっても異論の余地はない
それに対して、敷居氏は、わずか6行の元記事から、その筆者が「物事のマイナス面」を無視していると断言できないはずだと指摘している。その指摘を受け入れるなら、もはや「映画の半分」には固執できないはずだ。
「見え方を文章にしてネットに発表した時点で、それに対する責任は発生するはずだ」という主張の是非はともかくとして、少なくとも非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orangeにはこのような主張は明示的な形では出てきていない。それを後から出してきて、あたかも最初からこの論点がベースにあって、その上で「映画の半分」発言がなされたかのように語るのは、単なるロジカルな誤りというよりは、議論の意図的な攪乱のように思われる。
で、当たり前だけど、そこにはツッコミが入るわけでして……。

angmar いやまあ分かるんだけど、「どう見えちゃったか」という所から「半分を見逃している」と決め付けるのもまた早計だよ/あと常々一方的な批判行為に対して批判的なkaien氏からこういう言葉が出るとはね、って思う 2009/08/29

このコメントの前半がツッコミ、後半は付け足しなのだが、

何をして「一方的」というかですね。ぼくは軽々しくひとを罵倒したり、嘲笑したりすることには反対ですが、批判することそのものを否定したりしたことはないと思う。あったとしたら、それこそついうっかりいってしまったのです。

たしかに、批判と悪口をきっちり分けることはむずかしいし、ぼくの記事が正当な批判とはいえず、単なる悪口に等しいものである、というなら反省するべきでしょう。しかし、とりあえず、いまのぼくにはそういう自覚はありません。

前半はスルーして、後半のみにレスをつけているのが何ともかんとも……。
その後、論理的矛盾。 - Something Orange敷居さんとスカイプチャット。 - Something Orangeと続いていくのだが、もはやそこではサマーウォーズ見たら死にたくなったに対する非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orangeの批判の妥当性という問題が全くそっちのけになってしまっている。ウェブ上で批判をするときの一般的な心構えや姿勢ということも、それはそれで重要な話だろうとは思うが、別に今すぐにそんな話をしなくても構わない。とりあえず今確認しておきたいことは次の一点のみ。
非モテが死にたくなってもべつにいいんじゃね? - Something Orangeにおける「物事のプラスの側面しか見ず、マイナスの側面を無視する」並びに「映画の半分を見ていないに等しい」及びそれに続く非モテ批判は、サマーウォーズ見たら死にたくなったに対して妥当なものではない、ということだ。
最初にも書いたが、当初この話題はスルーするつもりだった。だが、明白な誤りについて他人から指摘を受けてもなお「映画の半分」などという虚辞を捨てないのはさすがに目に余る。目に余るが、海燕氏に猛省を促したところで甲斐はないだろう。せめて、読者諸氏に注意を喚起すべく駄文をしたためた次第。妄言多謝。

*1:その代わりに註釈で書いておこう。自分より幸福な人物が出てくる映画をみて自分を哀れむことと、自分より不幸な人物が出てくる映画をみて自分の幸運に安堵することは独立だから、前者から後者が論理的に帰結することはない。論理的には出てこないものを論理的に出てくると言ってしまうのは論理的に間違っている。

*2:「映画の半分」を額面通り受け取れば、これは極めて法外な主張だということになるだろう。非モテには手の届かない卓越した能力をもった人々とそのネットワークを『サマーウォーズ』の「半分」とみなし、それらの登場人物たちの苦悩を残りの「半分」とみなすなら、両者をあわせれば『サマーウォーズ』の「全部」ということになってしまうではないか。この映画の設定やプロットに限った話だとしても、これで「全部」だというのはさすがに『サマーウォーズ』を軽く扱いすぎだ。もちろん海燕氏にはそのような意図はなく、ただ単に「映画の半分を見ていない」というきつい言い回しで相手を非難したかっただけなのだろうから、「半分」にあまり拘泥しても仕方のない話ではある。この後、本文では何度となく「映画の半分」をキーワードとして用いるが、「半分」を字義通り1/2の意味で用いていないなどという瑣末な批判を行うつもりはない。それは、この註釈限りのこととして読んで下さい。

*3:もう何年も前のことになるが、その名も「砂色の世界」と題するウェブサイトがあった。特にこの話題とは関係ないが、ふと思い出したので書いてみた。

*4:ほかにもいくつかの論点が提示されており、必ずしも今引用した箇所が最重要点というわけではない。ここでは「映画の半分」に話を絞るため引用は最小限にしておくが、できればこの記事全文と、その続きの相手が対等かどうかなんて話してみなければわからない+『サマーウォーズ』雑感 - 敷居の先住民を併せて読んでみていただきたい。

*5:実際、その程度のことは読み取れて当然だと思われる。言及していないということから読み取れていないと推測するのは飛躍がある。「非モテ特有のバイアス」というバイアスがかかっているなら飛躍だと感じられないのかもしれないけれど。