「理屈込みで面白い」ということ

「理屈抜きで(に)面白い」という言い回しがある。たいていは褒め言葉として使われる。逆に考えれば「理屈込み」だと面白くないということなのだろう。
しかし、世の中には「理屈込みで面白い」ということもある。たとえば、これ。

天城一の密室犯罪学教程

天城一の密室犯罪学教程

『密室犯罪学教程』は小説10篇からなる「実践編」と密室の構成方法を解説した「理論編」がセットになっている*1。で、その「実践編」を読んでみると、何というか、小説としての妙味が乏しいというか、その、平たく言えばつまらない。ミステリは特殊な技巧小説なので、通常の小説で面白さを演出するために用いられるドラマティックな、あるいはロマンティックな要素をそぎ落とすことはよくあるのだけど、『密室犯罪学教程』の諸作はそういった諸作だけでなく、謎が生み出すサスペンスやそれを解きほぐす論理の妙などもすっぽり抜け落ちて、サンマの吸い物のような有様となっているのだ。
では、『密室犯罪学教程』はつまらない本なのか、といえばそうではない。非常に興味深く、面白い本なのだ。それは、「理論編」を併せて読むことで明らかとなる。まさに日本ミステリ史に残る傑作の一つと言えるだろう。
これが「理屈込みで面白い」ということなのだが、とはいえ、『密室犯罪学教程』を読んだことのない人には今ひとつピンとこないだろうと思う。そこで、もうひとつの例を挙げよう。それはバッハの「14のカノン」だ。
たぶん「『14のカノン』なんて聴いたことがないよ〜」という人が大多数だと思われるので、次の演奏をまず聴いてみてほしい。7分ちょっとかかるが、以下の説明を理解してもらうためにはどうしても「14のカノン」を聴いてもらう必要がある。

……どうだろう? 素直に「いい曲だ」と思えただろうか?
なんか妙に機械的で無味乾燥な音楽だと思った人が多いのではないだろうか。
後半はわりと派手になって聴きやすいが、最初のほうの数曲はどうしようもないほどつまらない。まるでバイエルのピアノ教則本のようだ。
いま掲げたのは初音ミクによる演奏なので人工的な雰囲気が強調されているが、ふつうの楽器で演奏したものを聴いても実は印象はあまり変わらない。

まあ、そんな曲だ。
ふつうの人が「カノン」と聞いて真っ先に連想するのは、パッヘルベルの「カノン ニ長調」だろう*2カノン (パッヘルベル) - Wikipediaを見ると、さまざな編曲や引用、ドラマなどでの使用例があり、その人気のすごさに圧倒される。これこそ「理屈抜きで面白い」音楽の典型だろう。
でも、パッヘルベルの「カノン」は作曲技法面からみれば、実はあまり高度な音楽ではない。2小節単位で繰り返される通奏低音の上に、3声の同度の単純カノンが延々と繰り広げられるだけだ。「理屈抜きで面白い」作品は理屈を知ってもそれ以上さほど面白くはならない。
一方、バッハの「14のカノン」は理屈を知れば知るほど面白くなる。たとえば、次の記述を読んでいただきたい。

《14のカノン》は、一冊の《ゴルトベルク変奏曲》初版譜巻末の未使用ページにバッハが丁寧に書き込んだもので、「先のアリアの8つの基礎音に基づく様々なカノン」という題名がつけられている。1974年にストラスブールで発見されたこの楽譜は、修正や改良を多く含む「私蔵保存本」で、バッハが将来改定版を刊行する予定でいたことを示している。

それぞれのカノンの記譜法自体は<謎カノン>の様相を呈し、演奏楽器の指定も無く、至って抽象的な音楽思考を追求した奇抜な作品である。反行と逆行に始まり二重・三重カノンと経て、最後の14番では拡大と縮小による4声のカノンが展開されることからも分かるように、殆どすべてのカノン手法を網羅しており、カノン技巧の難度が順に上がっていくようにアレンジされている。これらのカノンの解決は1通りである必要はなく、R.ボスは1996年の著書において268通りの解決を提示している。

カノン関連用語の知識がないと、何が書かれているか理解しづらいかもしれない*3が、それでも何か面白そうなことが書かれているという雰囲気は伝わるのではないだろうか。
ちなみに、「14のカノン」の「141」という数にも意味がある。これはバッハの名前を数で表したものだ。BACHを数に置き換えると2+1+3+8=14となる。
で、具体的にカノン技法が「14のカノン」でどのように用いられているのかについては、次を参照してもらいたい。

残念ながら解説はすべて英語だが、にょこにょこ動く楽譜を眺めるだけでもおおよその意味はわかるはずだ。誰かは知らないがいい映像を作ってくれたものだ。
これが「理屈込みで面白い」ということです。おわかりいただけたでしょうか。

*1:私家版では縦書きの「実践編」と横書きの「理論編」が向かい合わせになっているという凝った構成だった。商業出版にあたり、『密室犯罪学教程』には含まれない小説を加えて一冊としているが、ここまではそれらに言及しない。

*2:この曲は「ジーグ」とセットになっており、個人的には「カノン」より「ジーグ」のほうが好きなので、「カノン」ばかり有名になっている現状は残念だと思っている。この話題については以前書いた文章があるので興味のある人はそちらも読んでください。

*3:カノン (音楽) - Wikipediaを参照すればだいたいわかる。なぜか「縮小カノン」の説明が抜けているが、要するに「拡大カノン」の逆だ。