漢字と通奏低音はよく似ている

さっき、風呂に浸かりながら「『よい』というのはどういうことだろうか?」というようなことをぼんやりと考えていた。
今、ひらがなで書いた「よい」は、漢字をあてるなら「善い」または「良い」となる。表外訓だが「好い」「佳い」「吉い」などとも書く。それぞれの漢字の意味は少しずつ違っているが、それぞれの「よい」は全く無関係だというわけではない。
なお、日本語にはこれらの「よい」とは全く異なる「よい」もある。たとえば「酔い」や「宵」だ。もっと「酔い」も「宵」も名詞だから、形容詞の「善い・良い・好い・佳い・吉い」とは品詞が異なるし、古語では全然別の語だった*1そうなので、とりあえず考えに入れないことにする。
話を戻す。
「善い・良い・好い・佳い・吉い」はみな同じ語なのか、それともそれぞれ別の語なのだろうか? どの場合でも対義語は「わるい」で、漢字で書けば「悪い」だ。そう考えると同じ語だと言いたくなる。だが、日本語に習熟した人なら、これらの漢字をある程度使い分けることができるだろう。いくらかは重なり合う部分があるにしても、互いに識別可能なのであれば、それぞれ別の語とみるべきではないか、とも思える。
これは「ある語とある語が同じ語であるとはどういうことか?」という問い、すなわち、語の同一性規準の問題にかかわる事柄だということに気づき、風呂の中でぼんやりと考えて簡単に答えが出るものではないので、もうこれ以上このテーマについて考えるのはやめよう、と気を緩めたその瞬間に、ふと思いついてしまったのだった。
漢字と通奏低音はよく似ているのではないか、と。
なんでこんな変なことを思いついたのかといえば、風呂に入る前にバッハの知られざる名曲「詩篇51『拭い去りたまえ、いと高き御神を』」BWV1083をCDで聴いていたからかもしれない。なお、曲名はCDの解説書に書かれていたものをそのまま転記したのだが、「いと高き者よ、我が罪をあがないたまえ」というタイトルのほうが馴染みがあってしっくりくる。

ペルゴレージ:スターバト・マーテルによるバッハ:詩篇「消し去りたまえ、いと高き者よ、我が罪を」

ペルゴレージ:スターバト・マーテルによるバッハ:詩篇「消し去りたまえ、いと高き者よ、我が罪を」

このCDだと思うのだが、タイトルの表記が違うなぁ。
まあ、それはともかくとして、漢字と通奏低音のどこが似ているのかという説明をしておこう。と、その前に断っておかなくてはならないのだが、ここで言う「通奏低音」とは、「彼女の生涯を通じて通奏低音のように鳴り響いていたうんたらかんたら」というような比喩的な意味でのそれ*2ではなく、本来の通奏低音を指す。いや、「本来の」と強調してしまうと語弊があるかもしれない。ええと、数字付き低音のことだと理解してください。

正確にいえば、漢字そのものが通奏低音に似ているというのではなくて、日本語の漢字かな混じり文における漢字の使用が、通奏低音書法で作曲された音楽の楽譜に書かれた数字や記号に似ているということになるだろう。
楽譜に記されたひとつの音符は、ひとつの音に対応している。たとえば、ハ音を表す音符はハ音を表している。当たり前だ。だが、ひとつの音符が場合によっては複数の音からなる和音を暗に示していることもある。ハ長調のハ音がドミソとかドファラを表すように。楽譜に書かれた音符から楽譜に書かれていない音を読み取って演奏するのが通奏低音奏者の仕事なのだが、その場合に助けとなるのが、音符の上に記された数字や記号だ。
ひらがなで書かれた「よい」を読む人は、それが道徳的に「よい」なのか、処世術として「よい」なのか、縁起が「よい」なのか、美学的に「よい」なのか、科学的に「よい」なのか、そういったことを文脈から読み取るのだが、その際、漢字で「善い」とか「良い」とか書かれていれば、明示的には書かれていない、その場の「よい」がもつ含みをより容易に把握することが可能となる。
すべてのアナロジーに限界があるように、このアナロジーにも限界がある。瑣末な違いを挙げるなら、通奏低音書法において数字は音符に添えて書かれるものであり、数字を書いたら音符が省略されるということはないが、日本語文では漢字を書いたらひらがなが省略されることが多い。総ルビの文章でもひらがなに添えて漢字が書かれるのではなくて、漢字に添えてひらがなが書かれる。
あれ? ついさっき「瑣末な違い」と書いたばかりだが、ここには何か大きなヒントが隠されているような気がしてきた。もしかしたらただの気のせいかもしれないが、少し考えてみたい。だが、今回はここまでにしておこう。せっかく風呂であたたまったのに、暖房のない寒い部屋でこんな文章を書いている間にすっかりさめてしまい、そろそろ指先がかじかんできた。

*1:よい - ウィクショナリー日本語版参照。

*2:ここでそのような「通奏低音」の用例を見ることができる。