『氷菓』とバッハと昭和の終わり
昨日、Twitterでこんなツイートを見かけた。
140文字という制限ではどうしても説明不足となるため、少し補足しておく*2。
西洋音楽史を大まかにみれば、「中世」→「ルネサンス」→「バロック」→「古典派」→「ロマン派」→「現代」という流れだ。このうち、バロック音楽は1600年から1750年までの150年ということになっている。「ということになっている」事情を説明しよう。
1600年頃に音楽史上重要なふたつの作品、『魂と肉体の劇』及び『エウリディーチェ』が初演されているので、この頃にバロック音楽が始まったとされている。
外交官としてローマに行くこともたびたびあり、その時は音楽家としても活動した。有名な『魂と肉体の劇』の初演は、1600年2月のことである。この曲は一般に、歴史上最初のオラトリオととらえられている。記録によると、この曲はその年に2度、サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ教会に隣接するオラトリオ・デ・フィリッピーニ(フィリッピーニ祈祷所)で上演され、35人の枢機卿たちがそれを観賞したらしい。
1600年、カヴァリエーリは、ヤコポ・ペーリ作曲の歴史上最初のオペラ『エウリディーチェ』(オッターヴィオ・リヌッチーニ台本)を上演した。このオペラはフランス王アンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚披露宴のための出し物の一つだった。カヴァリエーリにとって不幸だったのは、披露宴のメーンイベントの『チェファロの強奪』の制作を、ジュリオ・カッチーニに奪われて、何もできなかったことである。カヴァリエーリは怒ってフィレンツェを離れ、二度と戻ってくることはなかった。
しかし、エミリオ・デ・カヴァリエーリとかヤコポ・ペーリより、ジュリオ・カッチーニのほうが知名度が高いだろう。彼の活動をもってバロック音楽の開始とみなすなら、16世紀後半にまで遡ることになるだろう。ちなみに、カッチーニの名前とともに知られる「アヴェ・マリア」は1970年頃に作曲されたものだ。えらく長生きしたものだ。
一方、バロック音楽の終わりとされる1750年はJ.S.バッハの没年だ。後期バロック音楽最大の作曲家であるバッハの死とともに、バロック音楽が終わったということにしているのだ。一方、バッハと並ぶ大作曲家ヘンデルは1759年まで生きていたので、この年をバロック音楽最後の年にしてもよかったのではないかと思うのだが、一般にはバッハの没年を採用している。「1759」より「1750」のほうがきりのいい数字だからかもしれない。
バッハは一つの時代の終期を画するという意味で、文字通り「画期的」な作曲家だった。現在では、バッハを古典派の作曲家とみなすことはほとんどない。しかし、19世紀から20世紀前半くらいの音楽史家は、バッハやヘンデルをハイドンやモーツァルトなどと同じ「古典派」に位置づけていた*3。もっとも「同じ」と言っても全然違う音楽なので、バッハやヘンデルの音楽は「前期古典派」、ハイドンやモーツァルトの音楽は「後期古典派」と呼び分けていた。
「前期古典派」に似た用語に「前古典派」というのがあるが、これはバロックと古典派の過渡期の音楽のことで、昔の音楽史用語の「前期古典派」とは時期的にも概念的にも異なる。
その他、「古典派」と「古典主義」の違いとか、面白い話題はいくつもあるのだが、深入りするには知識が不足しているのでこのくらいにしておこう。
『氷菓』のPVに話を移す。
「PV」という略語をみると、「Pulmonary Vein」すなわち肺静脈を連想する人もいるだろうが、『氷菓』と肺静脈には特に密接な関係はないはず。夫婦肺片夫妻肺片*4とも無関係だろう。ここで言う「PV」とは「Promotion Video」のことだと思う。違ったらごめん。
PVを見た人のコメントでは、あまりバッハは氷菓、もとい氷菓されていないようだ。PVを見た人のコメントでは、あまりバッハは氷菓、もとい評価されていないようだ。*5アニメファンの間に既存の音楽を用いることをよしとしない風潮があるのか、単純にバッハでは作品の雰囲気に合わないと思われているのか、どちらかなのかはよくわからない。
PVで流れているのは、最初に引用したツイートで言われているとおり、バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番」で、前奏曲がまるまる使われている。原曲は文字通り何も伴奏のないチェロひとつ*6で演奏されるが、『氷菓』PVではごく控えめな伴奏が添えられている。
ついでに、あまり控えめでない伴奏が添えられた演奏例を紹介しておく。
この演奏では、チェロのパートをサキソフォーンで演奏しているが、ほかにもギターやクラリネットや初音ミクなど、さまざまな楽器で演奏された無伴奏チェロ組曲がYouTubeにアップされていて、聴き比べてみると面白いのだが、いちいちリンクを張るのは面倒なので、ひとつだけ。
で、なんでまた『氷菓』PVで無伴奏チェロ組曲なのか、ということだが、「古典」繋がりというのはやや穿ちすぎではないだろうか? PVの尺に合った音楽で著作権が切れているものの中から適当に選んだ、というのが実態ではないかと思う。
実は、最初に冒頭のツイートを見たときに、バッハの別の曲と勘違いして、選曲が『氷菓』の内容を暗示するものではないかと一瞬考えてしまった。
その時、勘違いした曲というのは、これだ。
同じ無伴奏チェロ組曲だが、こちらは2番の前奏曲だ。この曲は、バッハ本人はあずかり知らぬことだが、ある時代を生き延びた日本人には忘れようにも忘れられない出来事を彩る音楽だ。この曲は昭和64年1月7日午後11時55分過ぎに、NHKが通常の放送終了時に流される「君が代」にかえて流した音楽であり、従って「昭和の終わり」を象徴する曲として、その放送を視聴した人々の記憶に刻まれている。
これがどういうふうに『氷菓』の内容に繋がってくるのかといえば、あまり具体的なことは書けないのだが、この作品が昭和に起こった出来事の謎を平成の高校生が探る、ある意味で歴史ミステリとも言えるものだからだ。
もっとも、これは小説版での話。
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まあ、いずれにせよ、PVで用いられている音楽が無伴奏チェロ組曲の第2番ではなく第1番ではないのだから、音楽が内容を暗示しているなどという考えは妄想に過ぎなかったのだけど、せっかく浮かんだ妄想だから、もう少し展開してみよう。
バッハの死をもって「バロック/古典派」が区切られるというのはフィクションに他ならない。音楽の様式や書法がある日突然変化するということはない。同様に昭和64年1月7日で一つの時代が終わり、翌日から新しい時代が始まったというのもフィクションだ。とはいえ、これらのフィクションは全く事実無根というわけではなく、明らかに存在するはずなのに曖昧模糊とした「時代の節目」を可視化するための道具として機能している。うまく言えないが、現象レベルでは連続しているものを理念によって分断するもの、それがバッハの死であり、元号である。
さて、「連続と分断」というモティーフは、実は米澤穂信の小説にもよく出てくる。いま話題にしている『氷菓』では、連続している時間が分断されているほか、作中で謎として提示されている「氷菓」という語を導入した人物の境遇も、「連続と分断」というキーワードで表せるだろう。
また、米澤穂信の初期代表作のひとつ、『さよなら妖精』も、「連続と分断」というキーワードで読み解くことができるだろう。
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これらの作品では、青春のほろ苦さが描かれている、と言われる*7。そのほろ苦さのすべてではないにせよ、かなりの部分が「連続と分断」によって醸成されているのは論を俟たない。高校生の主人公たちの前に立ちあらわれる「出来事」は、なにも別世界で生じたことがらではなく、いま・ここから地続きの連続した世界における事象であるのに、主人公たちはその「出来事」に対して全く干渉することができず、ただ傍観者であるに過ぎない。その「連続と分断」が初期米澤作品の通奏低音ともいえるだろう。
……と、それらしい事を語ってみたが、あまり信用しないように。抽象的なキーワードをふたつ並べれば、たいていの小説を論じることができる。たとえば「束縛と解放」というキーワードで『インシテミル』について論じてみるとか。
また、専門用語の濫用にも注意。たとえば、「初期米澤作品の通奏低音」などと書くと何となく深遠そうだが、「通奏低音」本来の用法からは大幅に逸脱している。ハッタリはほどほどに。
それはともかく、前にも書いたとおり『氷菓』に続いて『さよなら妖精』もアニメ化してほしい、いや、アニメ化は無理でもせめて幻の古典部ヴァージョンを出版してほしいと切に望んでいるのだけどそれは無理ですかそうですか。
*1:なお、Twitterは「つぶやき」のためのツールだと心得ているので、リプライしていない。元ツイート主が気づこうが気づくまいがどうでもいい、ただの独り言だ。
*2:言うまでもなく、これもまた独り言に過ぎない。
*3:当時の人々にとってはブラームスやワグナーなどが「現代音楽」で、それより前の音楽を「古典」とみなして一括していたのかもしれないが、この辺のことはよく知らない。音楽史-史家のご教示を願いたい。
*4:夫妻肺片 - 一本足の蛸参照。
*5:ブクマコメントでおれせん。の中の人から「許されざる誤変換」との指摘を受けていたのだが、しばらくパソコンに触れる機会がなく、修正が遅れたことをお詫びしたい。原文の2箇所の「氷菓」のうち後のほうを「評価」と修正するだけのことだが、もともと誤変換をネタにした書き方になっているので、そこだけ見え消しにしたのでは意味不明になるため、一文まるごと削除して、修正したものを追加することとした。上の「夫婦肺片」ミスの修正方法と異なっているのはそのためである。なお、この日記では、よほど些細な間違いか、アップ直後に発見した間違いでない限り、原文を書き換えて間違いの痕跡を消すことはしないことにしている。もっとも、見え消しで残して後々まで読まれてしまうとまずいことが書かれている場合はその限りではない。たとえば、読書感想文を書いているときには「ここまでは書いても大丈夫だろう」と思って書いたが、後になって、その判断が間違いだと気づいたような事例で、これらはいわゆる誤記・誤変換とは自ずから取り扱いがことなる。
*6:チェロの数え方は難しい。ここでは「面」と書かれている。1面、2面と数える楽器といえば筝が有名だが、チェロをそう数えた事例を見聞きしたことがない。こちらでは「挺」「丁」などを紹介した後、「本」を採っている。