空論としての「哲学」

さっき、はてなブックマーク - Twitter / fromdusktildawn: ちなみに哲学的に厳密に議論するなら100000回実験 ...経由で知った話。

Twitterというのは便利だけど怖いツールで、一連の発言のごく一部だけ切り取って筆者の意図を読者に誤認させることができる。そういうのは性に合わないので、前後のツイートも引用しておこう。
二人の論者が、因果関係の証明の基準について議論していて、双方とも自分たちは「哲学」の議論をしているのではないと認識している、という状況があったようだ。
しかし、私見では、これは少し違っていて、両者はまさに哲学の議論を行っている。ただ、二人とも「哲学」という語をかなり限定的に解釈している。現実に我々が行っている推論や判断とはかけ離れた空論、という感じだろうか。
確かに、哲学は常識を否定したり、自明だと考えられている事柄について懐疑を投げかけたりすることがしばしばある。100000回の試行を経て確証された命題でも100001回目に反証されるかもしれない、というのは、哲学ではごくありふれた発想だ。しかし、それは哲学の入口に過ぎない。
ちょっと大胆に断言してしまえば、哲学とは「100001回目の試行で反証されるかもしれない」という議論をいかに論駁するかを考える活動だ。懐疑主義でもなければ不可知論でもない……というのは言いすぎで、哲学的懐疑論もあれば哲学的不可知論もあるのだが、それらの立場を採る人でも、「10001回目の試行で……」とだけ言って平然と居直るようなことはない。それを平気でやるのは哲学者ではなく哲学屋だ。
ふつうの常識人なら頭から相手にしない懐疑論・不可知論の主張を哲学では無視しない。それが常識人の目から見れば非常識に見える。そして、哲学者のふりをした哲学屋が賢しらに哲学の入口をさも深遠な真理であるかのように見せびらかすから、どうしても「哲学」という語に空理空論というイメージが付きまとう。それが定着してしまえば、もはや「哲学」の一つの用法となってしまうので、「実利と乖離した哲学議論」とか「哲学的に厳密な証明」と言われたときに、「それは『哲学』の誤用です!」とは言いづらくなる。
残念なことだ。