「偽善」も「綺麗事」も「本当のこと」

この「本当のこと」というのが際どいところで――世の中に流通している情報とか思想のほとんどは、「偽善」だったり「綺麗事」するんですよね。

たとえば、みんな人殺しはいけないっていうじゃないですか。「なぜひとを殺してはいけないのですか?」とかひとに訊いたりしますよね。でも、現実を見てみろよ、と。

殺人は絶対悪だとか、ひとを殺す奴は悪魔のような鬼畜だとか、そんなの全部嘘じゃん、って。じっさいに地球上ではいまも戦争や虐殺が続いているし、過去には何億という人びとが殺されて死んでいるよね、って。

それもそのたびに「正しいお題目」が考え出されて、それに従って死んでいる。ひとを殺すための兵器も戦術も日々進歩し続けていて、より簡単により大量の人が殺されるシステムが作られ続けている。

しかも戦場では殺人はもちろん、強姦、略奪、放火、すべてが並行して行われる。その血まみれの歴史を思う時、人間の真実とは何かと考えてみれば、「殺人は絶対悪」なんていえないことは明らかです。

「現実を見てみろ」という言葉はしばしば現実の一面のみに読み手や聞き手の注意を向けて、それ以外の面から注意を逸らすために用いられるので用心が必要だ。いま引用した文章では「地球上ではいまも戦争や虐殺が続いている」とか「過去には何億という人びとが殺されて死んでいる」という、それ自体としては否定しがたい事実を強調することによって、「戦争や虐殺はどこでも起こっていることではない」とか「殺されて死んだ人よりそれ以外の原因で死んだ人のほうがはるかに多い」という明白な事実が覆い隠されてしまう。

だってね、「ひとを殺してはいけない」とするロジカルな根拠なんて何もないんですよ? その根拠を求めれば論理は必ず無限退行します。その無限退行を止めるために有効と思えるのは宗教であり、神の概念であるわけですけれど、ぼくたち日本人の大半はもはや神を信じていません。

ようするに「ひとを殺してはいけない」という倫理より「ひとはひとを殺すものだ」という現実のほうが、ぼくにはより「本当のこと」だと思えるのです。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについての私見以前書いたとおりなので繰り返さない。6年前の文章だが、今でも考えは変わっていない。
ここでは別の問いを投げかけることにしよう。
たとえ「偽善」や「綺麗事」であったとしても、殺人を悪とする倫理は昔から多くの社会で受容されてきたものであり、「人間の真実」の一部ではないのか? そのことを「本当のこと」から排除するロジカルな根拠などあるのか?
なお、誤解のないように言い添えておくが、一つ前の段落を構成するふたつの疑問文は、単なる反語や修辞疑問文ではなくて、本当に疑問に思っていることを書いたものだ。それぞれの問いに対して、説得力のある回答がなされるのなら、それはそれで有意義なことだと考える。

追記(2012/03/29)

本文の最後から二番目の段落で書いた疑問文に対して、返答。 - Something Orangeという文章が書かれている。なんだか拍子抜け。
「本当のこと」のもつニュアンスが通常の意味あいとはかなり違っているために、意図が伝わりにくくなっているのではないかと思った。