自明でない「当たり前」

今日、全然別の話題について書かれた2つの文章を読んで、「あ、似てる!」と思った。
まず、それぞれの文章から該当箇所を引用してみよう。

これ、ひとつには品揃えの問題なんだけど、もうひとつはシステム的な問題だったりする。順番にレジに並ぶことができなくて、売場で金払おうとするじーさんとか、まあ収納代行でもそうだよね。「コンビニに行けば払える」っていうことになるから、払込用紙なんか持ってこなかったりもする。おじいちゃん、バーコードのある紙がないとできないのよ、おうそのバーコードってのはなんだい、それはねこういうものなのよ、おう、それ捨てちまったい。捨てんなよ。

見りゃわかることだ。だってレジでバーコード入力してんだから。ただそれを「見て」わかるのは一定以下の世代であり、年寄りにそれは通じない。つまりコンビニを便利に使うのにも、それ相応の知識ってのは必要だったりして、それが年寄りには欠落してることがある。

もちろん、数学は言語能力だけで学べるものではない。数的な感覚もある程度必要である。

数学が苦手な学生向けのコースで、私が黒板に、

1 + 2 + 3 + … + 100

と書いたとき、ある学生が真面目な顔をして、

「3と100の間には何があるのですか?」

と聞いてきた。そして他の学生からは笑いが漏れて来なかったのである。

この2つの事例のどこが似ているのか?
両者の共通点は驚きだ。それも、未知の事柄に対する驚きではない。既知の事柄の中に別の見方をすれば謎があるという発見に由来する驚きだ。
ふだん「当たり前」だと思っている事柄であっても、他の根拠に依存することなくそれ自体で明らかであることを「自明」と呼ぶなら、この世の中には自明なことなどほとんどない。コンビニでの収納代行はバーコードというシステムによって成り立っているのだし、規則的に連続している事物を端折って表すための表現はまさにその事物の規則性に依存している。だが、人はしばしば自明でないものを自明だと思い込む。そして、何が何に依存しているのかが見えなくなるのだ。見えているはずのものが見えなくなっていて、その見えなくなってしまったものがこのような形で見えてくるというのが面白い。
なお、ここで言っているのは「常識を疑え」とか「王様は裸だ」というような話ではない。そういう話題とも全く無関係ではないだろうと思うが、いちおう別物です。