隘路に……

大飯原発の再稼働が近い。
「できれば再稼働しないほうがいいなぁ」と思いつつも、「再稼働しないと今年の夏には大幅な電力不足が生じて死人が出る」と言われてしまうと、「うーん」と腕組みしてしまう。こういうのを人質論法というそうだが、確かに人質を取られてしまうとなかなか反論するのが難しい。
一方で、もし原発直下で大地震が発生したら……と考えると諸手を挙げて賛成する気にもなれない。今夏限定の再稼働容認論もあるが、うまい具合に地震が夏を避けてくれるわけではない。原発が爆発すれば逃げるしかないが、逃げて済むというものではないのは昨年の東京電力原発事故で明らかだ。関西電力の場合は、さらに琵琶湖が汚染されるというリスクもある。嶺南*1の人々が命からがら京都や大阪へ逃げ延びたとき、そこが安住の地だという保証はない。幸い(?)「東の八ツ場、西の大滝」と呼ばれた大滝ダムは西の横綱を川辺川ダムに譲り、現在、試験湛水中だが、京阪神の水需要地に大量の水を供給できる状況にはない。
というわけで今年の夏は、神仏に祈りを捧げて身を清め、万が一の場合には天命に従うのが最良の策ということになるだろう。我々は隘路に直面している。
で、今年の夏を乗り切ったとしても、夏の次には秋が来て、秋の次には冬が来る。冬が過ぎれば春が来て、春の次はまた夏が来る。来年の夏にはいったいどうなっているのだろう? 隘路は少しは広がっているのだろうか?
と、そんなことを考えているときにPseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味: 電気が足りないと人死にが出る(あるいは、脱原発への冷静な議論)を読んだ。この文章の筆者は「段階的脱原発派」だそうだ。

具体的には、古い原子炉は廃炉にすべきであり、再稼動は新しい方から順番にすべきです。古い原子炉は、効率も悪く放射性廃棄物も多く事故の可能性も高いからです。その一方で、廃炉2基以上に対して1基の割合であれば、新しい原子炉の建設を認めても良いでしょう。要するに「トータルで原子炉の数を減らしていく」のを国策にすべきだと考えます。勿論、最終的にはゼロにするのを目指します。

かなり気の長い話だ。「廃炉2基以上に対して1基の割合」で原子炉を新設すれば当然何十年かは使うことになるし、さらにそれらが古くなって廃炉するときにも同様に新設するとなると100年以上かかるのでは? その間にも日本ほど地震リスクの高くない国々では原発が増えているだろうし、それまでにウランが枯渇してしまう恐れもある*2。でもまあ、脱原発への冷静な議論の結果がこれなのなら仕方がない。あとは、神仏に祈りを捧げて身を清め、万が一の場合には……。