ある『星を撃ち落とす』の感想

星を撃ち落とす (ミステリ・フロンティア)

星を撃ち落とす (ミステリ・フロンティア)

先日、『星を撃ち落とす』の出版を祝して友桐夏、7年間の軌跡 - 一本足の蛸という記事を書いたところだが、実はまだこの本を買っていない。というのは、地元の書店にはまだ入荷していないからだ。今日は日曜日なので、店頭に並ぶのは明日以降だという。田舎はなんでもワンテンポ遅い。まあ、もっと田舎になると、ミステリ・フロンティアが入らない書店ばかりなので、遅くなっても出回るだけましだとも言える。
マリー・アントワネットなら「書店がだめならアマゾンでお買い」と言うかもしれない*1。しかし、昔から「本は自分の足で探し求めるものだ」という行動様式で動いてきたので、単に利便性が高いという理由でネット通販を利用する気にはならない*2。通販を利用するのは、そこでしか買えない場合に限られる。たとえばこれなど。いや、まさか2日で受付終了になるとは思わなかった。危ないところだった*3
閑話休題
『星を撃ち落とす』については、そろそろちらほら感想文が出つつあるようだが、先に読んでしまうと面白くないのでチェックしていない。そんな中、「友桐夏読了」という件名で後輩からメールが届いた。知人からのメールなので読まないわけにはいかない。こんな内容だった。

『星を撃ち落とす』読了しました。内容そのものは悪くないと思うのですが、書き方、見せ方次第でもっとよくなるのでは、と感じました。
特に視点人物が無造作に切り替えられているようで、これはほぼ全編を一人の視点に統一するか、各章でそれぞれ別の一人に統一するかした方がよかったのでは。構図の逆転が売りなら、誰にとって構図が逆転しているか、より明確であった方がよいかと。ミステリにこだわらないならどうでもいいかもしれません。
ともかく友桐夏先生の再臨は喜ばしいかぎりです。次作が期待できるものだと思います。

短い文章だが、技術批評が含まれている。さて、これはどうなのだろう?
友桐夏の過去の作品を読んだときに特に視点の混乱を意識したことはない。三人称の文章の中に視点人物のモノローグを拡張したような形で一人称の文章が混じるという文体を採用しているので、慣れるまでは少しまごつくかもしれないが、さほど読みにくい文章ではなかったはずだ。たぶん、ここで言われていることはそのような読みやすさの観点からの批判ではなく、ミステリ的様式美の観点からの「据わりの悪さ」の指摘なのではないかと思われる。
さしあたり、「『星を撃ち落とす』のタイトルが印象的で素晴らしい」というような、本を読んでいなくても言える当たり障りのないことを書いて返信したところ、次の矢が飛んできた。

『星を撃ち落とす』のタイトルは登場人物の不可解で違和感ある感情や行動を直感的に理解させる響きがあって、私もよいと感じました。それだけに、物語や構成がそこに収束するよう十分整えられていないのがやっぱりもったいないです。とはいえこういったタイトルや言葉のセンスは天性のものだったりするので、次作の待たれる作家には違いありませんが。

やはり後輩の関心は文体ではなく構成のほうに向けられているのだとわかった。で、思い出したのがこれ。

ここで言われている「お行儀の良くない構成」と関係があるのかどうかが気になる。
だが、他人の意見を取り上げてあれこれいうより、まずは自分が読んでどう思うかだ。というわけで、『星を撃ち落とす』をきちんと読んで、できれば次の週末くらいには感想文をアップしようと思うのだが……さて、どうなることやら。

*1:マリー・アントワネットが生きた時代には、ネット通販という商業形態はまだなかったので、この言葉そのものを彼女に帰するのは誤りである。ついでに言えば「パンがなければ……」も彼女の言葉ではない。

*2:この点を詳述するのは面倒なので、書を求めて街に出よう - 一本足の蛸を参照されたい。

*3:間に合わなかった方々の例:その1その2その3