地方病と教育委員会

地方病 (日本住血吸虫症) - Wikipediaは非常に読み応えのある良記事だが、一箇所どうにも腑に落ちない記述がある。それは、『俺は地方病博士だ』に関する部分だ。

しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫のライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。1917年(大正6年)、山梨地方病研究部は山梨県教育委員会と共同で『俺(わし)は地方病博士だ』と題した、当時としては画期的なイラストを多用した全16ページにおよぶ多色刷りの予防パンフレットを2万部作成し、有病地の小学生に無償で配布した。ミヤイリガイの発見により日本住血吸虫の生態が解明されてから僅か3年半後であったことを考えても、当時の関係者が児童への感染防止をいかに重視していたのかが分かる。

言うまでもなく、日本における教育委員会制度は第二次世界大戦後にアメリカから導入されたもので、大正年間には存在しなかった。
学制百二十年史:文部科学省によれば、戦前の地方教育行政制度は次のとおり。

立憲制の成立に前後して公布された市制及町村制(明治二十一年)及び府県制、郡制(同二十三年)によって戦前における我が国の地方行政制度の骨格が決定された。これに伴い二十三年第二次小学校令及び地方学事通則が公布され、地方教育行政の機構並びに地方団体及びその所掌事務などが詳細に規定され、戦前における我が国地方教育行政制度の基本的枠組みが成立した。

この小学校令と地方学事通則とにより、教育は本来国の事務であり市町村は国からの委任によってその事務を行う責任があるものとされ、教育行政における文部大臣・府県知事・郡長・市町村長などの各権限と責任が具体的に規定された。初等中等教育の場合、教育の目的・教育課程・教科書・教員の服務などの原則的事項については文部大臣が権限を持ち、学校の設置と維持・教員への給与等・学務委員及び郡視学の教育事務などの経費については、地方団体がそれぞれ分担して責任を持つとされた。府県の教育行政は、府県知事が文部大臣の指揮監督を受けて管掌したが、その補助機関は地方官官制等により規定され、当初の十九年には第二部学務課としその課長は尋常師範学校長が兼任し得るとした。その後、二十三年には内務部第三課となって課長は行政官専務に復したが、三十二年課長には道府県視学官を充てることとなった。三十八年学務専管の第二部が設置されたが、四十年には再び内務部中の一課に戻るなど、しばしば変転した。郡長は、府県知事の指揮監督を受けてその郡内の教育行政事務について町村長を指揮監督するとし、その補助機関として第二次小学校令により郡視学が置かれた。

昭和三年、従来内務部が担当していた地方教育行政事務部門が学務部として独立した。しかし第二次大戦中の行政整理により、十七年十一月学務部は廃止され再び内務部に吸収され、教育関係職員も著しく減員された。

「しばしば変転した」そうなので、現在の教育委員会にあたる組織が1917年当時何だったのかは具体的にはわからないが、『俺は地方病博士だ』に関わったのは山梨県内務部のどこかの課だろう。
ウィキペディアには、『俺は地方病博士だ』作成の経緯の出典についての註記がないが、おそらく記述者が参照した資料には「今の山梨県教育委員会にあたる」というような文章があってそれを誤読したか、または、参照元資料の段階で既に誤っていたか、どちらかだろうと思われる。